「島根のダヴィンチ」荒川亀斎 小伝
今年の6月27日から来年の6月9日まで、松江市奥谷町の『小泉八雲記念館』で企画展「八雲が愛した日本の美〜彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」が開催されています。
1890(明治23)年8月に松江に赴任した小泉八雲は、その約1ヶ月後、松江市寺町の龍昌寺にある石地蔵と出会い、魅了されます。八雲はすぐにその作者であった荒川亀斎の元を訪ね、その腕前と気質に惚れ込み、のちに松江を離れてからも、支援者として亀斎と交流を続けたと言います。同展では、小泉八雲が松江で見出だした日本の美と、八雲の審美眼を探りつつ、日本の文化を世界に発信する「プロデューサー」としての八雲の側面が紹介されています。
その荒川亀斎ですが、宗淵寺にも縁(ゆかり)があることをご存知でしょうか?本堂の向拝柱の木鼻に彫刻された象鼻は、実は荒川亀斎の作、と伝えられています。
荒川亀斎は1827(文政10)年4月25日、松江の雑賀横浜に大工の子として生まれました。名を重之助、通り名として明生、重之輔と称し、雅号として石濤(濤石)、太白館、亀齢斎、亀幽斎、酔石、東雲などと号しました。亀斎の雅号は66歳の時、後述するシカゴ万国博覧会での出品以降に使用しています。
亀斎が生まれた当時の雑賀横浜は職人町で、近くには鍋・釜・包丁等の鉄製品を作って専売した松江藩の直営企業「釜甑方」もあったと言われ、そういった環境で育った亀斎は、幼少より父の作業場で鑿や金槌をおもちゃ代わりに遊んでいたと言われます。そして2歳にして蝉や蜻蛉を描いて才覚を表し、14歳で常教寺(松江市寺町)の鐘楼や売布神社拝殿に龍の彫刻を残したと言われます。その後も工芸や書画のみならず国学や俳句、骨董にも造詣を深め、更には明治維新以後、西洋文化の輸入に刺激を受けて物理学に没頭、やがて松江藩病院や島根県庁などの機械器具類の製作や管理、操作なども委嘱され、1876(明治9)年には、島根県庁からの依頼で螺線仕掛けの学校用大そろばんを発明し、数百個製造します。その多才ぶりから、現在では「島根のダ・ヴィンチ」や「松江の平賀源内」などとも称されています。
そして1877(明治10)年、第一回内国勧業博覧会(初代内務卿・大久保利通が主導して、国産品の開発・奨励を目指した当時国内最大規模の展覧会)に「紫檀製書棚」を出品、見事に賞牌を受賞します。この時、亀斎50歳。その名声は出雲地方に止まらず、全国的に知られる存在となりました。
そんな中、亀斎は松江に赴任した小泉八雲と出会います。当時の八雲は寺町を散策するのが好きで、特に龍昌寺に奉安されている十六羅漢像を見に来ることを楽しみにしていました。ある日八雲は境内にあるお地蔵様を見つけます。その慈愛に満ちた表情に見惚れた八雲は、すぐに寺男を呼び止め、作者が誰か尋ねると、その寺男が亀斎の名を明かしたと言います。
実は、この石地蔵は別の石工が製作したもので、顔以外はすでに完成していたものを、たまたまそれを見た亀斎が「自分に顔を仕上げさせて欲しい」と名乗り出て、顔相だけを彫ったとのこと。当時この事実はあまり知られておらず、名工の隠れた仕事の一端を見抜いた八雲の慧眼に、人々は驚いたと言われます。
八雲は、同僚であり親友だった西田千太郎の案内で亀斎の工房を訪ね、そこで美術論などを交わして両者は意気投合します。八雲は、龍昌寺にあるお地蔵様と同様の彫り物を所望し、亀斎もこれに快く応じ、桜の木を材質にして彫刻に取り掛りますが、製作途中で八雲が黒柿に変えて欲しいと言いだし、完成した黒柿の仏像を八雲に送りました。
八雲は著書(「英語教師の日記から」)の中で、
「私はしかし、この松江にも、現に生きている老芸術家で、左甚五郎以上に不思議な猫を作る人があると、ひそかに信じている。その一人に荒川重之助という人がある。」と述べて、亀斎を激唱しています。
八雲は亀斎を世に紹介しようと、西田千太郎と共に、1893年のシカゴ万博への出品を勧め、取次に尽力します。この万博で亀斎の「櫛稲田姫像」(出雲大社蔵)が優等賞を獲得し、国際的な栄誉に欲しました。
1906(明治39)年、荒川亀斎は79歳で死去。亡骸は菩提寺である松江市新町の洞光寺に埋葬されました。
その死後も評価は続き、人気のテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』の2010年の放送で、前述の桜の木で彫刻した小泉八雲ゆかりの未完の仏像が鑑定品として登場。90万円ほどのプライスがつきました。
亀斎は生涯で200を超える作品を残したと言われ、出雲地方のお寺には数多く作品があると言われています。
実は、宗淵寺の象鼻の彫刻は、口伝としては荒川亀斎作と伝わってはいるものの、実際に鑑定書があるわけではなく、本当に亀斎が彫刻したものかどうかの証明ができません。なので、現時点では「伝・荒川亀斎作」と表現せざるを得ません。
但し、宗淵寺が現在の地に1843年に移転したという、亀斎の活動年代との一致があること、また荒川家の菩提寺である洞光寺が宗淵寺の本寺(本家筋に当たる寺)という縁故がある、という周辺状況を踏まえると、亀斎作である可能性が高い、とは言えそうですが、果たして、鑑定は如何に?(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第23号所収>