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宗淵寺/願興寺

ペットの供養

2019.09.17 01:00

「ペット供養堂」建立の発願

 本稿では、昨年から、観音講や宗淵寺の総代世話人会で、その建設の是非について話し合いを重ねてきた「ペット供養堂」についてお話をさせて頂きます。と言いますのも、今夏、その建立に向けての寄付をお願いする趣意書を配布させて頂いたためです。

 これまでの、宗淵寺のお檀家さんの幾人から、「ペットの犬を家墓に葬りたい」というご要望を受けたことがございます。その際にも住職や総代で相談をしましたが、結果として境内での墓葬はお断りして参りました。

理由は、境内墓地の利用に関する事前の約定にないことで、もし墓葬を認める場合は、利用者全員の確認が必要になること。それから「人間と動物は(扱いが)違う」という意見があったためでした。

 正直に言うと、私の親世代である住職と総代さんの答申したことと、当時の私の考えは少し違っていました。私は、条件付きですがペットとの墓葬は「可能」という立場でした。ただその条件とは、それが先祖代々のお墓の場合、ご先祖様の中には、「動物との同居」を認めない先祖がいる可能性があり、当代だけの一存で墓葬するのは難しいのではないか、というものでした。

 その後、棚経などでお檀家さんの家にお邪魔した時に、亡くなったペットの遺影や遺骨を祀られているのをよく見かけようになってきました。観音講の会報『どうぎょう』での講員さんのご寄稿にも、ペットと暮らし、互いに憐れみ合い、そして看取り供養し、飼い主が残される悲嘆が、よく伝わって参ります。

 今年の初め、我が家で飼っていた犬、コタツが亡くなりました。噛み癖があって手のかかる犬でしたが、第一子が亡くなって傷心だった私たち夫婦にとって、コタツの存在が幾ばくかの慰めになったことは間違いありません。

 今までの飼い犬は、境内地に埋めて供養してきました。一昔前はそういうお宅も多かったと思います。しかし今は家の庭先に埋葬ができる環境も少なくなってきました。

 私たちも今回はコタツを火葬にして、骨壷を家に安置しています。「ペット供養堂」の建設の建設が成った暁には、そこで供養してやろうと思っています。


ペット供養の歴史

 『寺院崩壊』などの著書で知られる作家で僧侶の鵜飼秀徳さんは、近著『ペットと葬式』(朝日新書)の中で、ペットの葬送の歴史は古く、4〜5世紀頃に、応神天皇が猟犬を埋葬した記録があり、また大坂の岸和田市にある義犬塚古墳があり、これは6世紀後半の物部守屋の変で戦死した捕鳥部萬(とりとりべのよろず)と言う人物が飼っていた猟犬が、主人の首を咥えて土に埋め、その場所を守ったまま、餌も一切食べずに餓死したのを、朝廷が「犬畜生ながらあっぱれ」と讃えて、主人の萬の横に墓を作って弔ったとのことで、1500年経った今でも、萬の末裔によって「偲ぶ集い」が開かれていると紹介されています。

 また昭和になって、有名な忠犬ハチ公の葬儀には、僧侶16人が読経した盛大なもので、青山霊園にあるハチ公の墓は、今でも参拝者が絶えないとも伝えます。

 一般社団法人ペットフード協会による「全国犬猫飼育実態調査」では、犬の場合、室内飼育が2004年では60.1%だったのが、17年調査では84.4%にまで猫では、04年の室内飼育の割合が72%、17年では86%まで、それぞれ増加しており、ペットが社会的に「家族に昇格」したのは1999年前後だと、鵜飼さんは指摘しています。


動物は供養して成仏するのか

 しかし仏教界でも、住職や総代さんと私の間で見解に相違があったように、ペットや動物の供養については、様々な立場があることも事実です。

 動物が人間と同じような供養の対象となり得て、成仏する存在なのかどうか。

 この命題について、2016年の浄土宗の総合学術大会で象徴的な論議がありました。その様子を伝える記事によると、学会の席上で、浄土宗学研究所の嘱託研究員を務められていたあるご住職が、

「動物の身のままでは念仏を唱えることができないから、そのままでは極楽往生できない。人間に転生して、念仏を唱えることで成仏できる」。

と発言されました。これに対して、会場にいたある大学教授の方が、

「追善供養(回向)によって、他者の読経や供養などで善業を振り向けて往生ができる。だから念仏が唱えられない幼霊や障がいのある方も往生ができるのであって、動物も同じではないか」。

と反論された、と言います。

 このことについて、『葬式は、いらない』などの著作で知られる宗教学者の島田裕巳さんは、

「キリスト教では人間と動物は完全に分かれており、そもそも埋葬の対象にならない。神道も同様で、境内に動物を入れないのはその区別を明確にするためです」。

とし、また同じく宗教学者で、死別の悲嘆を癒す支援をする「グリーフケア」という概念を日本に根付かせた島薗進さん(上智大学神学部特任教授グリーフケア研究所所長)は、

「そもそも仏教とは、本来人間がどう生きるかのためにあるもので、動物のためにあるものではありません。とはいえ、ペットの家族化が進む中、犬や猫の死による飼い主の悲嘆をどう癒すかも宗教的に今後は論じられていくはずです。それによりペットに対する供養のあり方、祈り方も変化していくでしょう」。

との解説を寄せています。

 さて、それでは宗淵寺や願興寺が属する曹洞宗では、ペットや動物の供養についてどのように捕らえられているのでしょうか。

 結論から言うと、公式見解も、公の場で意見が交わされたこともなく、寺院や僧侶各々の見識と判断に委ねられています。

 しかし、経典や教えを見る限り、動物のみならず、植物も含めて大自然の全ての生きとし生けるものを仏性の現れとして尊ぶよう説くのが、曹洞宗の教えの基本姿勢と思われます。

 両祖として道元禅師と並び称される瑩山禅師は、次のような趣旨ののことを述べられています。「すべてのものを平等にみる仏の大慈悲心は、平等にありとあらゆる生き物を涅槃に導き、広大無辺教えは、どのような生きものも等しくお救いされる。寺の田畑が耕作されたとき犠牲になった虫たち、檀信徒が飼育する家畜や、ありとあらゆる自然界でいのちを落とした生きものを供養しなさい。これらが成仏できるとしたら、それは僧侶による懇切な供養の力しかありません」。

 その上、仏教では苦しみの根源の一つに「愛別の苦しみ」を説きます。

 ペットは、日本語では愛玩動物、伴侶動物と訳されます。人間とペットは、従来の使役する関係から、愛憐や思慕を伴う「友達や家族」のような存在になったのです。私は、この愛別の苦しみを癒せるのは、供養の力に他ならないと考えています。(副住職 記)<願興寺観音講会報『どうぎょう』第49号所収>