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源法律研修所

夫婦同氏制の由来

2020.01.27 04:45

 報道によると、ある国会議員がいわゆる選択的夫婦別姓について代表質問をした際に、ヤジが飛んだらしくて、大騒ぎになっている。

 この国会議員にせよマスコミにせよ、必ず夫婦「別姓」と言うが、一体どこの国の話をしているのだろうか。現行民法は、夫婦「同氏」制を採っているので(民法第750条)、それを言うならば、正しく夫婦「別氏」と言うべきだろう。

cf.民法(明治二十九年法律第八十九号)

(夫婦の氏)

第七百五十条 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。


 ここでは、このような喧騒から離れて、そもそも夫婦同氏制が採用されたのは、明治31年(1898年)に制定された旧民法からなので、それまでの経緯を簡単におさらいしたいと思う。


 まず、明治元年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇が紫宸殿に公卿諸侯を集め、天神地祇をまつって五箇条をご誓約あそばされた。以後、この五箇条の御誓文が、四民平等政策など様々な政策の基本方針となる。


 ところで、記紀に出てくる神様や天皇をはじめとする皇族には、苗字がない。しかし、4世紀ごろから、同じ血縁関係にある一族(血族)であることを示すために、例えば、蘇我、大伴というような「(うじ)」が用いられるようになった。その後、朝廷から「朝臣(あそん)」や「宿禰(すくね)」などのような地位や職業を表す「かばね(姓、尸、可婆根)」が氏族に与えられた。

 しかし、奈良時代以降、例えば、同じ「朝臣」を名乗る人が多くて、個人を識別しにくくなった。そこで、「かばね」とは別に、「藤原」、「橘」、「平」及び「源」というような「(せい、本来の姓なので、「本姓」ともいう。)」が与えられるようになった。

 しかし、平安時代になると、同じ「姓」の人が増えて、再び個人識別がしにくくなった。そこで、例えば、京都の一条通に住んでいた「藤原」姓の人が「一条」と名乗ったように、一般的には住んでいる地名を名乗るようになり、それが「名字」である。

 江戸時代になると、名字帯刀の身分を有しない庶民は、祖先以来の名字があっても、公式の場では名字を名乗ることが許されなくなったため、非公式に名乗っていた名字のことを「苗字」と呼ぶようになった。

 

 このように江戸時代では、平民は名字・苗字を公式に名乗ることが許されていなかったが、四民平等を推進するために、明治3年(1870年)、平民苗字許可令(明治三年太政官布告第六百八号)によって、平民も苗字を名乗ることが許されるようになった


 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787950/212


 そして、江戸時代までは、公用文書に署名する際には、姓(せい。本来の姓なので、「本姓」(ほんせい)とも言う。)と尸(かばね。「姓」とも書く。)を用いてきた。例えば、徳川家康公は、「源朝臣家康」と署名した。「源(みなもと)」が姓(本姓)で、「朝臣(あそん)」が尸で、「家康」が諱(いみな。実名・本名のこと。)だ。

 この点は、明治維新政府の高官も同様であって、例えば、大久保利通卿も、公用文書には「藤原朝臣利通」と署名していた。

 しかし、四民平等を推進するために、明治4年(1871年)、姓尸不称令(せいしふしょうれい。明治4年太政官布告第534号)により、今後一切の公用文書から姓尸を除き、苗字実名のみを用いて署名することになった。したがって、これ以降、例えば、大久保利通卿は、公用文書に「大久保利通」と署名しなければならなくなったわけだ。

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951


 明治4年(1871年)、戸籍法(明治四年太政官布告第百七十号)に基づいて、翌明治5年(1872年)に戸籍(いわゆる壬申(じんしん)戸籍)が編製された。四民平等を推進するために、それまでの宗門人別改帳のような身分別ではなく、居住地である現実の戸(屋敷)単位による登録で戸籍が作られた

 そして、この壬申戸籍に「氏」を用いる人もいれば、「姓」を用いる人もいれば、「名字」・「苗字」を用いる人もいた結果、もともとは異なる来歴・意味を持っていた氏、姓、名字及び苗字が同じ意味を持つものとなり「氏=姓=名字=苗字」へと一本化されたわけだ。

 なお、この壬申戸籍には、皇族、華族、士族、卒族、平民が記載されたのだが、一部の地域では被差別部落民が平民と記載されることへの反発があったため、その地域の戸籍には新平民や元穢多・元非人と記載されてしまった。現在では、差別を助長するおそれがあるので、法務局で厳重に保管され、全く閲覧できない状態になっている。


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951


 そして、明治5年(1872年)の明治五年太政官布告第百四十九號により、従来通称と名乗を両用していたが、今よりは一つの名前を用いることになった。大岡「越前(守)」や遠山「左衛門尉(さえもんのじょう)」のように、官職由来の通称(仮名(けみょう)ともいう。)と、大岡「忠相(ただすけ)」や遠山「景元(かげもと)」のように、名乗(なのり。諱(いみな)ともいう。実名・本名のこと。)があったが、どちらか一つの名前を用いることになったわけだ。


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952


 しかも、明治5年の明治五年太政官布告第二百三十五號により、華族から平民に至るまで、今より苗字名と屋号を改称することが禁止され、簡単に変更できないことになった

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952


 ところが、あえて苗字を名乗らない平民がいたため、兵籍取調べの必要上、明治8年(1875年)に、平民苗字必称義務令(明治八年太政官布告第二十二号)が布告され、平民全てが必ず苗字を名乗らなければならないことになった。ただし、祖先以来の苗字が不分明の場合は、新たに苗字を設けることになった。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787955/71


 さて、ここからが本題だ。明治8年(1875年)に、内務省から太政官に対して、「華族士族平民に論なく、すべて婦女他家に婚家後は終身実家の苗字を称すべきや。又は、婦女はすべて夫の身分に従うはずのもの故、婚家後は婿養子同一にみなし夫家の苗字を終身称し候(そうろう)や。」という照会があった。

 そこで、明治9年(1876年)に、太政官が、「婦女人に嫁するもなお所生(しょせい)の氏(つまり、生家の氏)を称すべきこと、ただし、夫の家を相続したる上は夫家の氏を称すべきこと」と回答した(明治九年太政官指令十五号)。つまり、行政実務(戸籍業務)上の解釈(行政実例)としては、妻は実家の氏を称すべきであるとして、原則として夫婦別氏制が採られたわけだ。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787956

 

 その後、まず、明治29年(1896年)に、民法第一編、第二編、第三編(明治二十九年法律第八十九号)が、次に、明治31年(1898年)に、民法第四編、第五編(明治三十一年法律第九号)が制定された。

 そして、この明治31年制定の民法第746条は、「戸主及び家族はその家の氏を称す」と定め、その結果、従来の行政実例である夫婦別氏制から一転、夫婦同氏制が採られたのだ。

 わずか22年で夫婦別氏制から夫婦同氏制に変更されたのはなぜか。


 夫婦同氏制の趣旨について、民法起草者の一人である梅謙次郎先生は、その著『民法要義』巻之4(親族編)43頁で、2点挙げておられる。


行政上の慣習によれば、妻は実家の氏を称すべきものとせりといえども、これみだりに支那(Chinaシナ:中国の地理的呼称。)の慣習を襲へる(受け継ぐこと。)ものにして我邦の家制の主義に適せず

また、実際の慣習にも戻(もと)る(そむくこと。)ところなり


 けだし、

妻がその実家の氏を称するは、あたかもなお実家に属するの観をなし夫婦家を同じうするの主義に適せず

また、実際において何某妻誰と称し、大抵その実家の氏を称することなし。故に、従来の行政上においては、妻はその実家の氏を称すべきものとせるに拘(かか)わらず、一般に夫の氏を称するのみならず、公文においても夫の氏を称し、ために行政官吏がその訂正を命ずること多し。これ妻が実家の氏を称するの我邦の慣習に適せざる顕著なる証拠なり。なお、宮中においては、従来、妻は夫の氏を称すべきものとせり

と述べておられる。


 梅先生の慧眼(けいがん)恐るべし。「民法典の父」と呼ばれる梅先生は、わずか12歳の時に、頼山陽(らい さんよう)先生の『日本外史』(にほんがいし)を藩主に講じた神童で、東京外国語学校(現:東京外国語大学)のフランス語学科を首席で卒業した後、司法省法学校(現:東京大学法学部)に首席入学し、病気のため卒業試験を受験していないのに平常点だけで首席で卒業しておられる。そして、国費留学生としてフランスへ留学し、飛び級でリヨン大学の博士課程に入学し、首席で卒業しておられる。

 幼き頃より和漢の書籍に慣れ親しみ、欧米の法にも精通した天才だったからこそ、支那の「姓氏」・「家」と日本の「姓氏」・「家」は、同じ文字で表記していても、その意味するところが全く異なることをよくご存じだったのだ。

 日本では、長い年月をかけて、夫婦家を同じくして仲睦まじい一家団欒の家庭を作ろうと努めてきたし、今もそうだ。梅先生がおられなければ、支那由来の夫婦別氏という誤った行政解釈が強制され続けて、日本の家族のあり方も大きく変質させられたことだろう。民法制定時に梅先生がおられたことは、日本人にとって幸甚(こうじん)だった。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150960


 ①まず、梅先生が仰っている「支那の慣習」については、補足説明が必要だろう。東京外国語大学名誉教授の岡田英弘先生は、その著『妻も敵なり 中国人の本能と情念』(クレスト社、平成9年)で次のように分かり易く述べておられる。

 「他人はすべて敵であり、油断をすれば、いつ寝首(ねくび)を掻(か)かれるか分からないという考えが、中国人のメンタリティの中に牢固(ろうこ)として根ざしているのである。」(56頁)

 「中国人は一歩表に出れば、敵だらけだと思っていると書いたが、実のところは、それ以上に厳しい世界に住んでいる。彼らは家庭に帰っても、気を緩めることができない。何しろ、男にとって最大の敵は、自分の妻であるからだ。

 妻ほど自分の私生活を知りつくしている人間はいない。つまり自分の弱点を最も握っている危険人物は、妻なのである。

 なぜ、中国において夫婦間が敵対関係になるのかーその理由はいくつかあるが、その最大の原因は中国社会が父系社会であることにある。

 ご存じのように、中国では結婚しても女性は姓が変わらない。今の日本では夫婦別姓論議がさかんだが、中国の場合、女性の姓が変わらないのは、彼女の地位が高いからではない。結婚しても姓が変わらないというのは、要するに、いつまで経ってもよそ者扱いされているということである。

 極論を言えば、中国において女性とは、跡継ぎを作るための道具に他ならない。もちろん、この場合の跡継ぎとは、男の子のことである。女の子を産むようでは問題外である。

 なぜそこまで男の子にこだわるのかというと、中国では男系の子孫だけが死んだ人の魂を祀(まつ)ることができるからである。そうでない者、つまり娘がいくら供物(くもつ)をしても、それは死者の口に届かない。そのため、男系の子孫が絶えた家では、死者は永遠に腹を空かせていなければならないーだから、男の子を産むかどうかが「家」の最大の関心事となるのである。

 しかし、男の子を産んだからといって、扱いが変わるわけではない。あくまでもよそ者はよそ者なのだが、跡継ぎの母親ということで、多少大事にされるくらいのことである。

 先年話題になった『ワイルド・スワン』(講談社刊)では、主人公のお婆さんの世代の話(つまり、革命前の時代)が事細かに書かれている。それを読めばよくお分かりいただけると思うが、要するに嫁に来た女性というのは実質的には奴隷である。働かされるだけ働かされて、さらには跡継ぎを催促(さいそく)され、男の子が生まれなければ、ただちに放り出される。」

 「そんなわけだから、いきおい女性のほうも防衛上、強(したた)かにならざるをえない。ありとあらゆる手段を講じ、亭主の弱味を掴(つか)んでいなければ自分の身が危うくなる。」(72頁〜74頁)

 「そうなると、今度は夫のほうでも防衛策を講じることになる。妻に弱味を見せないのは当然のこと、妻の弱味を掴まえようと必死になるーかくして、中国の夫婦関係はどんどん殺伐たるものになっていくのである。

 中国史には毒婦、悪妻の例は、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の妃・妲己(だっき)から始まって、毛沢東(もうたくとう)の江青(こうせい)夫人に至るまで枚挙に暇(いとま)がないが、それは当然のことなのである。」(76頁)


 岡田先生は、「中国社会が父系社会である」と述べておられるが、これがなかなか我々日本人には理解しにくい。日本にはなく、日本人の想像を絶するからだ。私なりに理解したことを書き留めておく。

 支那における父と子の血縁関係に基づく父系集団を「宗族(そうぞく)」という。宗族の特徴は、共通の始祖と祭祀を持つ血縁共同体であって、姓を同じくし、同一宗族間の結婚が絶対に許されないことだ(仁井田陞著『支那身分法史』 東方文化学院、1942。国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。)。

 支那の「宗族」は、日本の親類・親戚とは全く異なる。親類・親戚を民法上は「親族」というが、「六親等内の血族」(民法第725条第1号)と言ってみたところで、誰を基準にするかによって親族の範囲が変わるという意味で相対的な分類にすぎない上に、「配偶者」(民法第725条第2号)や「三親等内の姻族」(民法第725条第3号)も「親族」に含まれるけれども、支那の「宗族」の場合には、支那人は、必ず一つの「宗族」に属し、二つ以上の「宗族」に属することは決してないので、ある「宗族」に属するか否かは二者択一の絶対的な分類であって、「配偶者」や「姻族」は「宗族」に含まれない。「配偶者」や「姻族」は、徹頭徹尾よそ者であって、信じられるのは「宗族」だけなのだ。

 宗族が共同体だということは、内と外では異なる論理に従うダブルスタンダードだということだ。宗族は、共通の始祖を儒教に基づいて祀る宗廟(そうびょう)を持ち、祭りの費用を捻出するための田んぼ(「祭田」という。)や相互扶助のための田んぼ(「義田」という。)等の財産を所有している。宗族の長(おさ。「族長」又は「宗長」と呼ばれる。)は、宗族のメンバー(「族人」又は「宗人」と呼ばれる。)に対して絶対的な権威と権力を有し、宗族内のルール(「宗法」という。)は絶対であり(裏切りは、絶対に許されない。)、宗族のメンバー同士の結合も極めて強固であって、例えば、同一世代のメンバーは、始祖から何百代経っていても貧富や社会的地位の差があっても世界中どこに住んでいても互いに兄弟だとみなされ、相互に扶け合う。しかし、宗族ではない人に対しては、その時々の状況や損得に応じて対応するわけだ。つまり、裏切ることも厭わない。

 宗族は、同じ姓を持っており、同一宗族間の結婚は、絶対に許されない。共通の始祖から枝分かれして何百年何千年経とうが、絶対に許されないのだ。しかし、姓が同じであっても、宗族が異なれば、結婚はできるが、近親相姦のような嫌悪感を抱かれ、好まれないそうだ。日本では、同じ苗字の人同士の結婚はタブーではないし、いとこ同士の結婚も認められている。

 この支那人の姓は、生涯変わることがない。ところが、日本の苗字は、一生のうちに何度も変わることがある。木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉というのが典型例だ。また、支那人の姓は、結婚しても変わらないが、日本の苗字は、結婚によって変わる。姓のない支那人はいないが、日本では皇族には苗字がないし、明治になっても祖先以来の苗字がない平民が少なからずいた。

 同じ「家」でも、日本と支那では大違いであって、日本では、今でも多くの家庭がかかあ天下だろうが、支那ではかかあ天下はあり得ない。岡田先生が仰っているように、妻はよそ者だからだ。ただし、よそ者の妻は、自分の宗族によって守られていることを忘れてはならない。他人はもちろん、妻すらも信用できないことから、父子の血縁関係を重視する支那では宦官(かんがん。去勢された男性で、天子の後宮や貴族の邸に仕えた。)が発達したわけだ。日本には宦官はない。この点、京都大学名誉教授桑原隲藏先生は、「宦官は必ずしも支那の專有物でない。古代の西アジア諸國、ついでギリシア、ローマにも宦官が使役された。マホメット教國では、一般に宦官を使用した。印度のムガール王家などは、幾千といふ多數の宦官を備へた。此等の宦官は何れも君側に侍するので、時に政治上に相當の權勢を振うたことも稀有でない。我が日本の如く、古來宦官の存在せぬ國は、寧ろ珍しい方である。朝鮮や安南なども、支那の風を傳へて宦官を置いた。獨り我が國は隋・唐以來、盛に支那の制度文物を採用したに拘らず、宦官の制度のみを輸入せなかつたのは、誠に結構なことと申さねばならぬ。」と述べておられる(『支那の宦官』青空文庫で読むことができる。)。もう一点付け加えるならば、支那では20世紀まで宦官が続いた。宦官は、他人と妻に対する支那人の猜疑心の強さを如実に物語っている。宦官については、顧蓉・葛金芳著『宦官 中国四千年を操った異形の集団』(徳間文庫)が詳しい。

 また、日本では、跡継ぎがいなければ、血縁関係がない人であっても、養子として迎えて相続させることができるし、女性も家を相続して婿養子を迎えることができる。ところが、支那では、同じ宗族の男子の中からでなければ養子に迎えることができない。岡田先生が仰っているように、男系の子孫だけが死んだ人の魂を祀(まつ)ることができるからだ。孔子は、「非其鬼而祭之、諂也。」(其(その)の鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭(まつ)るは諂(へつら)いなり。)と述べている(『論語』為政第二)。つまり、「わが祖先として祭るべきでない神を祭るのは、卑屈なことである。」(貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)55頁)というわけだ。この点、京都大学名誉教授の貝塚茂樹先生は、「鬼は死んだ祖先の霊魂のことである。古代の家族的宗教では、死んだ祖先の霊魂は神となり、その血族の子孫の祭祀をうけることによって他界で生きつづける。血族でないものは、けっして祭にあずかることはできない。」と説明しておられる(貝塚前掲55頁)。つまり、「支那では、家を相續すると云ふことは、日本のやうに財産を相續すると云ふことではありませぬ。祖先の祀を相續すると云ふことであります。」(桑原隲藏著『支那の古代法律』青空文庫で読める。)。支那では、もし同じ宗族の男子の中から養子を迎えることができない場合には、その家を断絶させるというのだから、徹底している。面白いことに、支那では、年齢や嫡庶のいかんを問わず、すべての子供が均分に財産を相続する諸子均分制が採られていて、子は亡父に代位し、子のない寡婦は亡夫に代位して父または夫の受くべき分を受けることになっていた。財産の承継よりも祖先の祀の承継を如何に重視していたかが分かる。

 なお、欧米でも、血縁関係がない人を養子に迎えることができるが、養子は、贈与を受ける可能性があるだけで、相続権が認められていない点が、日本と異なる。


 支那では、民族の興亡が激しく、自分たちが生き残るためには、血がつながった宗族が結束するしかなかったのだろう。古代から現代まで連綿と続く運命共同体である宗族を結束させているものが、宗教である儒教だ。我が国が受け入れたのは、学問としての儒学であって、決して宗教としての儒教ではない(位牌や服喪など、儒教の影響は、少し受けているが。)。儒教には害があると見抜いてこれを受け入れなかった先人の叡智には本当に感心する。

 宗教である儒教については、大阪大学名誉教授である加地伸行著『沈黙の宗教ー儒教』(筑摩書房)が詳しい。儒教の弊害が如何に大きいかについては、慶應義塾大学名誉教授である村松瑛著『儒教の毒』(PHP文庫)に詳しい。


 ②次に、梅先生が仰っている「実際の慣習」についても、補足説明をしておく。井上操先生の論文「法律編纂ノ可否」(『法政誌叢』103号、明治23年)には、「婦 其(その)夫ノ氏を称スルトイフガ如キハ古昔ノ例トハ異ナリ。古昔ハ婦ハ其(その)実家ノ氏ヲ称シタリ。然レドモ幕府以来実際ハ夫ノ氏ヲ称シ、現ニ今モ夫ノ氏ヲ称シ戸籍ノ如キモ別ニ実家ノ氏ヲ示サズ。故ニ習慣ニ悖(もと)リタルニアラズ。実際現行スル所ニ従ヒタルナリ」とある(星野通著『明治民法編纂史研究』ダイヤモンド社所収。402頁)。

 つまり、昔は、妻は実家の氏を称したが、江戸幕府以来、実際には夫の氏を称していたから、旧民法第746条の夫婦同氏制は、習慣に背くものではなく、むしろ実際に行われていることに従っただけだというわけだ。明治初期には、江戸時代に生まれ育った人が多くいたから、信用してよいと思われる。


 夫婦同氏制は、旧民法の戸主制度(家父長制)を前提に、「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」とされ(旧民法第788条)、その上で「戸主及ヒ家族ハ其ノ家ノ氏ヲ称スル」(旧民法第746条)とされたことから、家制度と絡めて封建的であるとして批判されることがある。しかし、これは、悪いイメージを印象付けようとするレッテル貼りにすぎず、夫婦同氏制は、封建制とは無関係だ。昔は、北条政子のように、妻は実家の氏を称したからだ。また、梅先生や井上先生が仰っているように、封建制とは無関係の平民も夫婦同氏が慣習だったからだ。

 旧民法の家制度は、戸主の権利が強く、日本国憲法の文面と精神にそぐわないため、昭和22年(1947年)の改正民法により、法的制度としては廃止され、夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称することとされた(民法第750条)。改正民法は、旧民法以来の夫婦同氏制を維持しつつ、男女平等の理念に沿って、夫婦は、その合意により、夫又は妻のいずれかの氏を称するとしたわけだ。

 法的制度としての家は廃止されたが、道徳的制度としての家それ自体が悪かったわけではなく、今でも古き良き慣習として厳然として生き続けている。日本には、支那の宗族がない。世間の荒波から大切な家族を守る防波堤が家だからこそ現在でも残っているのだ。唯一くつろぐことができる場が家なのだ。だからこそ盆や正月に満員電車や交通渋滞に悩まされるとしても多くの人が帰省するのだ。支那人たちが宗族を築き上げてきたように、日本の先人たちが試行錯誤しながら築き上げてきた家制度も、まさに先人たちの叡智だと言える。新たに夫婦になった男女が家を同じくするために、共通のファミリーネームを名乗る。それが夫婦同氏制なのだ。ここにはワンチームを作るための智慧はあっても、女性(妻)差別など微塵もないことは、支那との比較で明らかだ。

 ここではいわゆる「夫婦別姓」や「選択的夫婦別姓」の是非については立ち入らないが、結婚時又は離婚時に氏を変更することに伴う手続的煩わしさの多くは、マイナンバーカードを上手く活用することによって解消するものと思われる。変なレッテル貼りをしたり、ヤジ一つで馬鹿騒ぎしたりせずに、夫婦同氏制の由来を踏まえた冷静で堅実な国会議論を期待したい。願わくば梅先生の如き俊傑がおられんことを!