死んでから本領を発揮する愛のカタチ
まみちゃんを応援するのに、
この形が一番最適に力になれるから
ちゃんと期待してて。
タクミ神のその言葉は
死んでしまった彼を
彼の遺骨と遺影の前で
散々泣きながら責める私に
どこからか聞こえてきた。
かと言って
それが本当かどうか
よくわからない、
むしろ
嘘なんではないかと思うことも
いっぱいあったけれども、
そしてまた何度も何度も
タクミさんも
私自身も責めたけど
今日の私は
ようやくしっかりと
それを確信してる。
こんなにも深く
尊いいのちの愛が
あること。
そしてもちろん、
そのタクミ神は
今日も私と一緒に
ここに、在る。
まぁ、
タクミ神だけでなくて
諸々の存在たちがいるので
我が家も賑やかなもの。
この自分だけで
この私を生きているわけ
ないもん、そもそも。
これを日常に感じられる
今日になるまで、
約3年かかった、
のかな。
その日常は今
たいていは穏やかで
深い感謝と
豊かな愛に満ちている。
それはその対比となる
カオスでぐちゃぐちゃで
感情ドロドロで荒んだ
どす黒い場所も
ここにあることを体験したから。
もちろん今もここにある。
そしてそこに
沈んでハマって
抜けられなくなると
そんな中にさえ
一種の静寂なる
底無しの美しさを
見つけられるようになる。
悲しいが故
痛いが故
辛いが故に
愛が引き立ち
その憂いなる美しさが
まるで燻銀の様に輝く。
愛しい存在が亡くなった時、
本当は
すぐそこにいるはずなのに
しばらくは感じれない。
感じたいのに
全然どうしてもわからない。
すぐここにいるのに。
だって
全てを感じない様に
必死に守ってくれてるからね、
この体と心が。
それだけ
辛くて悲しくて
切り裂かれたような痛みを
もろに受け取ってしまったら
気が狂ってしまうかもしれない。
自分の命の無事さえ
危うくなるなるかもしれない。
だから
その危険の緊急性が無くなり
落ち着いてきたところで
そのセーフティ装置は
一旦緩まったり
停止したりする。
いつか
徐々に感じることを
自分自身が生きていくことを
再開出来る様になっている。
そして
そんな解釈もできるけど
敢えてもう一点
加えるのなら
その亡くなった愛する人を
感じることこそ
湧き上がる悲しみ、怒り、憎しみ、
そんな重苦しい辛い思い
そのものだったりする。
どれだけ悲しみ、怒り震え
憎しみ切れず絶望するか、
それほどまでに愛している事を
思い知らされる。
そこまでの愛は
やっぱり死なないと
分からなかったよね。
少なくとも
わたしには。
愛する人が
先に死んでくれたからこそ
わたしが生きているうちに
受け取れる様になった
偉大なる尊い愛がある。
それを知って
生きていくことが、
そしていつか
死んでいくことができる。
その愛する人の愛が
その本領を発揮するのは
その人が死んでからこそが
本番かもしれない。
そしてそれを受け取れるかは
生きている人にかかっているのだから
愛する人の命を、想いを、
死んだからこそ受け取れるその愛を
しっかりと大切にしたい。
久しぶりに
タクミさんの末期癌が分かって
つけ始めた5年日記を開いた。
今は本棚に放置されたまま。
3年前の私は
ある場所で療養する夫、
タクミさんの為に
カレーを作りに行っていた。
2017年1月26日
今日は夜(夕方)だけちょっと寄る。カレー。たくさん寝ていると調子が良いらしいのでたくさん寝て欲しいのですが!そうすると腰が痛いとのこと。
彼の様子もその時の状況も
全てをしっかりと
直視できなかった私。
その約2ヶ月後に
看取ることになる。
そしてその翌年は
前年カレーを作りに行っただけで
その夫に寄り添い
1日一緒に居なかったことへの
後悔の思いを書いている。
頑張ってなんとか
前向きに、ポジティブに、と
自分の溢れる感情に抗いながら。
2018年1月26日
辛かった去年はご飯は夕方か。なんで1日一緒にいなかったんだろう。一番いてほしかった時であったであろうに。ごめんね。痛いの嫌だよね。(途中略)いのちをかけてまで私に愛を教えてくれる。そんな価値が私にあるの?
そして3年前の次の日には
もうその答えは出ていて
2017年1月27日
タクミさんは私がいるだけで安心するらしい。それだけでも私の価値があるんだと。
時系列を超越して
ちゃんと伝えたいこと
ちゃんと聞きたいことは
繋がってたりする。
そして
そのまた次の年は空欄。
もうずっと空欄が続いてる。
それでもまた
こうやって
読み返してまた
空欄に残された思いも
読み取れるわたしが
今日ここにいる。
そのわたしは
確実に
いのちの愛を受け取り
またその愛を育み
共に創造し
成長しているから。
愛する人も
確実に
体があったままでは
到底出来ることのなかった
最適なる形で
わたしを愛し
応援し続けてくれている。
感謝🙏