『廃絶録』(はいぜつろく)
旗本の小田又蔵彰信(おだ またぞう あきのぶ)により、文化年間(1804~1818年)に成立。その後他の人間が漸次書き足している。上中下の3巻で、関ケ原の合戦後の慶長5(1600)年~慶応元(1865)年の間の大名の配置・移動・加除・転廃を年次別に記載されている。著者の小田又蔵彰信により、対になる『恩栄録』も成立。但し、個人の編纂物ということもあり『廃絶録』および『恩栄録』には、おびただしい誤謬があるとされる。
筒井伊賀守定次は、上巻の最初の「慶長13(1608)年」に記載されている。尚、『廃絶録』と『恩栄録』の知行高は、9万5千石余となっているが、一方で、寛永年間(1624年 - 1644年)の二次史料である史書『当代記』、江戸幕府の公式史書である『徳川実記』、江戸幕府の公式家譜集である『寛政重修諸家譜』では、「20万石」とされている。また、「鳥居左京亮忠恒」の記述は、正しくは「鳥居左京亮忠政」(筒井定次を預かっていた当時は陸奥国磐城平藩主)であり、「本城」は「本丸」が正しい。
ところで、筒井佐次右衛門政勝も、下巻 常憲院殿(徳川綱吉)御代 天和元(1681)年 の項には、駿州田中城にいた酒井日向守忠能(4万石)の領地没収の際の御目付3人のうちの1人として記載されている。
国立国会図書館デジタルコレクションでは、『廃絶録』の翻刻版は、『史籍集覧. 第11冊』の412~462コマで閲覧が可能。
また、この『廃絶録』に基づき、徳川幕府の大名廃絶策にも触れているのが、『大名廃絶録』 1993年5月8日発行、南條範夫氏、文春文庫、である。
『廃絶録 上巻』
慶長十三年
九万五千石余 伊賀国上野 筒井伊賀守定次
六月八日、定次不義あるよし、家臣中坊飛騨守秀祐訴状を奉るにより、鳥居左京亮忠恒に預らる
城請取 本城 松平飛騨守忠隆
二丸 本多中務大輔忠勝 在番共 井伊右近大夫直勝
『廃絶録 下巻』
天和元年
四万石 駿州田中城 酒井日向守忠能
十二月十日、姪河内守忠挙逼塞せしめらるゝにより、江戸に来て遠慮して在べきやと、御気色を伺ひ奉るべき事なるに、居城に逼塞せし条、人臣の礼を失ひ、且平生の所行及び家中領内の政治道に乖ける事多しとて、領知を没し、井伊掃部頭直興に預けられ、男万千代は松平伊豆守信輝に預らる
元禄三年四月十九日、忠能恩宥ありて八月十五日、藁米二千俵を賜ひ、十五年十二月廿二日、三千石を加へられ、其後致仕す
上使 土屋相模守政直
城請取 仙石越前守政明 石川若狭守総良
在番 本丸・二丸 西郷若狭守正員 三丸 本多伊予守忠恒
御目付 田中孫十郎 加藤兵助 筒井佐次右衛門
『大名廃絶録』
・P.18
「 家康の時代においては、外様大名の処分されたものとして、慶長11(1606)年以降、堀一族(忠俊、直次、直寄、鶴千代)、両稲葉(通孝、通重)、津田、筒井、前田(茂勝)、中村、木下、桑山(清晴)、金森、有馬(晴信)、両里見(忠義、忠頼)、両石川(康長、康勝)、富田、高橋、佐野、福島(正頼)、織田(信重)の他に、特例として豊臣秀頼及びこれと内通した古田重然(しげてる)とがある。
計25名、豊臣、古田を除けば23家であり、このうち、世嗣なきための断絶が5家、旧豊臣系の大名が、秀頼を別として18家もあることを見れば、その処分方針の根本がどこにあったかは明白であろう。」
・巻末付録 P.5:廃絶大名一覧 自慶長5(1600)年至慶応元(1865)年
「慶長13(1608)年6月8日、筒井定次、伊賀上野、200千石、内訌廃絶」