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Kazu Bike Journey

Tokaido 東海道 12 (10/11/19) Hakone Shuku / Yamanaka Castle Ruins 箱根宿/山中城跡

2019.11.11 06:11

Hakone Shuku 箱根宿

山中城跡

小田原には結局6泊7日の滞在となった。予定は2日だったので、大幅の長くなってしまった。この調子で行くといつ東海道から紀伊半島に行けるだろう。随分と旅のスタイルが変わってきた。会社勤めをしている時は、この東海道は一週間で走破したが、今回は100kmの距離を11日もかけている。前回は走るのがメインだったが、今はじっくり見ながら回れる。仕事を辞めて、自由な時間がたっぷりとあるので、面白そうな所は何日もかけてまわることができる様になった。なんと贅沢な旅だろう。

今日は東海道の一番の難所の箱根越えに挑戦する。西から箱根に登るより、小田原から箱根に登る方が遥かにきつい。本当は箱根まで行き、そこで一泊したいのだが、安宿は箱根宿のある芦ノ湖では見つからなかった。夏であれば、テントを張って野宿でもいいのだが、もう11月で屋外で寝る為の十分な装備は持っていない。なるべく荷物を軽くするために、冬に寝れる様な寝袋でなく、夏用なので、気温が10度を下回ると寒さで寝れない。という事で、今日はロングライドで箱根を越えて三島まで行く事にした。朝早く出発。


宿を7時過ぎに出発し、旧東海道で板橋用水後まで行き、そのあとは早川沿いを箱根に向かって走る。


Hakone Shuku 箱根宿

箱根宿は東海道10番の宿場で小田原宿から4里8町 (16.6km) の距離。本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠36軒、戸数197戸、人口844人。人口は他の宿に比べ少ない。これはこの山奥に住んでいた人は少なく、住民は隣接する小田原、三島両宿場の住民を強制的に移住させた。本陣が6つもある。殆どの大名はここに宿泊した。箱根宿は元々は「元箱根」にあったが関所ができると、それに反対をして本陣の提供を拒み宿場を閉めた。そして関所の西側に急遽人工の町を設置したそうだ。今は観光地として賑わっているが、江戸時代はこれほどの賑わいはなく、静かな宿だった。幕府も宿場の維持に苦心したそうだ。


風祭一里塚

日本橋より21里、21番目の一里塚。


箱根山崎古戦場

箱根は西から東京に向かうには難所の場所、ここは常に戦場となった地域。幕末の慶応4年 (1868) 5月に戊辰戦争の局所戦が行われた。箱根関所を守る小田原藩は初めは倒幕そして、佐幕に方針を変え、再度、倒幕へと戻った。これにより、旧幕府軍と小田原藩は最終的に交渉決裂となり、旧幕府軍遊撃隊(林忠崇、人見勝太郎、伊庭八郎ら) は小田原からの敵の新政府軍の進軍に備え、湯本を本陣とし、布陣した。ここには山崎には伊庭八郎が布陣していた。(伊庭八郎は錦絵に描かれるほど、庶民には人気者だった。) ここで、風祭から前進してきた新政府軍と激戦が繰り広げられた。


三枚橋

箱根山崎古戦場から早川沿いに少し進んだところに三枚橋がある。伊庭八郎らは新政府軍におされ、三枚橋まで撤退する。伊庭はここで左手を斬られ、皮一でつながっている程の重傷で、味方に担がれ早雲寺に避難。


早雲寺

大永元年 (1521年)、北条早雲の遺言でその子北条氏綱が創建。天正18年 (1590年)、小田原征伐において、一時的に豊臣軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると焼き払われた。その後、北条氏の庇護を失って荒廃していたが、寛永4年 (1627年)に再建し、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興。

寺内には北条氏5代の墓の他、連歌師の宗祇、俳諧の稲津祇空の墓もある。

この寺は戊辰戦争で三枚橋から撤退した伊庭八郎たちが陣地として使われていた。ここで負傷していた左腕を切断。以後、伊庭八郎の左手は不自由となりながらも戦い抜き、江戸退却の後、函館戦争に合流、八木古内の戦いで胸部に被弾し、これが致命傷となった。五稜郭開城の前夜に自殺、26年の生涯を終えた。境内には伊庭八郎が指揮をしていた遊撃隊の戦死者の墓が建っていた。


湯本一里塚

日本橋より22里、22番目の一里塚。一里塚は今は無くなっていて見つからなかったが、地図ではここにあった様だ。



葛原坂

箱根の山越えの東海道には数多くの坂があり、其々に名前がついている。この後、幾つかの坂に遭遇する事になる。自転車では通れ無いところが殆どがなので、坂のある旧東海道の代わりに国道で登る。この葛原坂は須雲川村境にあって一町 (六十間) ほどの登り坂。


天聖院

箱根大天狗山神社別院の天聖院という派手な神社か寺か分からないがあった。神仏金剛宗という新興宗教の神社だそうだ。とにかく派手で、まさに新興宗教という怪しさを感じる。門には境内撮影禁止と何枚も張り紙がされており、中に入るのが躊躇われる。門の所から写真を撮影した。山岳宗教の流れを引いている様で神奈川県を中心に東京都や静岡県などに一万人程の信者がいるそうだ。


女転がし坂

馬に乗った女性がこのあたりで転んで死んだことから名前がついたらしい。箱根旧街道は整備されて、須雲川自然探勝道となっている。県道に自転車を停めて少し歩いてみた。川沿いに細い山道が続いている。畑宿に通じている。


天狗山神社

先程見た怪しい天聖院の本山があった。ここはもっと怪しく、もっと派手だ。大鳥居には天使が飛んでいる。この色彩感覚は理解できない。この神社を見ると、とても入信しようとは思わないのでは... 


天聖稲荷大権現

更にここにも天狗山神社の別院がある。この神仏金剛宗なるものに少しカルト的な危険さを感じたので、ここは見ずに先に進む事にした。


割石坂

曽我兄弟仇討の前に刀の試し切りをして石を割ってしまった。


畑宿本陣跡

畑宿は、江戸時代の中期に、本街道の間ノ村の宿場として栄えた集落で、小田原北条氏時代から続く郷土の伝統工芸の箱根細工が生まれ育ったところ。畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡で、大正元年 (1912) 全村火災の折に消失したが、庭園はそのままの姿で残っている。


畑宿一里塚

日本橋より23里、23番目の一里塚。明治時代に一部が削られたが、発掘調査後、復元されている。

ここから箱根旧街道と旧東海道の二つの道に別れ、箱根旧街道は山道になる。石畳や階段など旧な坂が橿木坂まであるのだが、自転車ではとても通れる道ではないので県道732号の旧東海道の自動車道路で行く事にする。

この県道732号も七曲りの坂と呼ばれ、自転車で進むには辛い斜度が10度を超える激坂道が続く。何度となく自転車を停め休み休みに進む。箱根駅伝でも一番辛い場所だ。

箱根旧街道はこの七曲りの坂を畑宿から橿木坂の所までほぼ直線のルートだ。県道732号でもかなり辛い。箱根旧街道はこれ以上に急な坂だろう。昔の人はここを越えて東海道を行き来していたのだ。凄い!



橿木坂

七曲りをあと二つ残して何とか橿木坂に着いた。現在は階段となっており、勾配だけ見れば恐ろしく急だ。階段のない時代はどうやって登ったのだろう、また下るのも骨が折れそうだ。ここで休憩をとり、箱根旧街道を歩いてみる。


見晴し茶屋

七曲りの残り二つのカーブを終えて見晴し茶屋というところに着いた。ここは江戸時代、樫の木平と呼ばれ、街道きっての坂道の難所と言われている。その通りだ。その辛い坂道を登ったところに見晴茶屋。江戸の旅人もそうだったろうと思い、ここで景色を見ながら一服。


猿滑坂

見晴し茶屋からも県道732号には並行して箱根旧街道が通っている。自転車は県道732号で行く。この県道732号と箱根旧街道の合流点に猿滑坂がある。ここでも休憩。かなり急な危険な坂で、猿でも容易に登れないというところから、この名が付けられている。現在はそれほどの急坂で無くなっていると言われているが、それでも急な坂だ。

まだまだ坂道は続く。


追込坂

甘酒茶屋までの緩やかな坂についている名前。坂の入り口に親鸞上人と弟子の別れの碑が立っている。


甘酒茶屋

江戸時代、東海道の箱根湯本と箱根関所間は東坂と呼ばれ、道が厳しいことで知られていた。そこを通る旅人の疲れを癒してくれたのが甘酒茶屋で、江戸時代には街道の9か所に設けられていた。甘酒茶屋のとなりには、旧街道休憩所がある。

甘酒茶屋の隣りには資料館もある。


白水坂

県道と交差した後にすぐ出会う坂。登り十二間とのことだがこちらも比較的緩やかな勾配。



お玉池

江戸時代には各地の大名がその妻を江戸に人質として住まわせていた為、江戸から出て行く女性の通行はかなり厳しく制限されていた。通行手形の取得には複雑で時間がかかる手続きが必要だった。俗に「入り鉄砲に出女」と言われ警戒されていた。江戸で奉公していたお玉が故郷へ逃げ帰ろうとし、関所破りが見つかり処刑され、哀れんだ村人たちが近くの池 (なずなが池) をそう呼ぶようになったという。


権現坂

西に向かってようやくの下り坂、目の前に芦ノ湖を望み箱根宿へはあとわずかな距離。

坂を下ると芦ノ湖が見えてきた。降り切ると箱根神社の赤い大鳥居が有る。箱根の坂を登るのにかなり時間を使ったので、箱根神社への訪問は断念。すぐ側に鎌倉時代の梶原景本由縁の身代わり地蔵というものがあった。


箱根宿杉並木/葭原久保の一里塚

葭原久保の一里塚は県道と並行に走っている細い旧東海道の街道沿いにあり、杉並木になっていた。その街道沿い日本橋より24里、24番目の一里塚がある。次の25里目には一里塚は存在しなかったそうだ。


箱根関所

芦ノ湖の辺りに、江戸幕府によって元和5年 (1619年) から明治2年 (1869年) まで設置されていた東海道の関所跡が復元されている。これ以前にも関所の機能を持ったものが、場所は異なるが、奈良・平安時代から設置されていたが、住民の反対によりここに移設された。江戸時代に設置されたこの関所は小田原藩によって管理運営が行われていた。関所跡への道沿いには多くの土産物屋が店を開けており、多くの観光客で賑わっている。

今日は快晴で芦ノ湖が綺麗に見える。遊覧船が湖を行き来している。湖の向こうには富士山が臨める。雲もほとんどなく、頂上が雪に覆われた富士山が姿を見せてくれた。


向坂

箱根宿を過ぎて、三島方面に向かう。芦川の石仏群の先に当時の石畳の残されていている向坂がある。自転車では走行出来ないので、入り口に自転車を停め、途中まで歩いてみた。箱根旧街道の歩き旅の人がいた。箱根関所には多くの観光客がいたが、ここは関所跡からは離れているせいか、観光客も見かけず少し寂しい感じだ。多分、旧街道の歩き旅も小田原-箱根間がメインで、箱根-三島間はもう一つなのだろう。小田原-箱根間は箱根鉄道も通っており、温泉も多くあるので仕方ないのだろう。箱根-三島間も最も観光開発はしているのだろうが、どうも箱根で三島と小田原の観光連携が寸断されている様に思える。


挟石坂/箱根峠

挟石坂は箱根峠にかかる一面カヤだらけの荒涼とした坂だったそうだ。今でも国道に出るまでの坂は山登りそのものだ。この坂を登ると箱根峠となり、後は三島まではずうっと下り坂となる。「箱根の山は天下の剣」と言われる通り、結構ハードな走行だった。今までで大変だった峠越えのひとつだ。今回の日本一周の旅では中山道の塩尻峠と北海道知床の羅臼山に次いでの難所だ。


今日、一番見たかったのが山中城。ここをみる為に箱根のいくつかの史跡は断念した。

県道で山中城に向う。この城は箱根旧街道の途中に有る。



山中城跡

山中城に到着したのは、午後3時。これからだと日没までは二時間しかない。日没まで山中城を見て周るのだが、その後、三島着は夜になるだろう。山中城の後は特によるところもなく今日の最後の見学なので、その後はゆっくりいけば良い。


[諏訪駒形神社]  北の丸の入り口に神社がある。本丸に守護神だそうだ。

この山中城は北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられていた。北条氏にとっては小田原の西の防衛の最重要拠点。城は東海道を取り込む形で造られ、小田原城の守りのために造られた箱根十城のひとつ。(箱根十城は文献ではどれがこの十城にあたるかは記載がないのだが、一般的には次の城と考えられている。鷹ノ巣山頂の「鷹ノ巣城」、湯坂山頂の「湯坂城」、駒ヶ岳西側山麓の「進士城」、塔之峰山頂の「塔之峰城」、明神ケ岳中腹の「宮城野城」、足柄峠東側麓の「浜居場城」、谷峨の「新庄城」)

北条氏政の代に豊臣秀吉と緊張関係になり、衝突は避けられなくなった。山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点とされ、北条氏政は、急遽、山中城の防備強化の為、堀や出丸など改修を始めたが、未完成のまま豊臣軍を迎える事となり、1590年 (天正18年) 、豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃。激戦となったが、北条勢は4千人と戦力差が甚だしく、わずか半日で落城となり、戦後、廃城となった。

この城は戦国時代末期の天文年間から永禄年間 (1530~1560年頃)、後北条氏により番城 (城主を置かない城) として築城。標高580メートルの自然の要害の地につくられ、城は東西500メートル、南北1,000メートルに及ぶ。城跡は綺麗に整備されており、北条氏独特の城郭の構造がよくわかる。小田原城の資料館に説明があった障子堀が復元されている。山中城は堀や土塁が良く残っており、石垣を使わない中世の山城の発展形と言える。尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れている。

駒形諏訪神社の鳥居をくぐり、堀跡に沿って、北の丸に向かう。空堀跡ははっきりと残っている。


[北の丸]  北の丸は本丸が落ちた後、最後の攻防が行われ、城主の松田康長はここで討死し、半日の戦闘が終わり落城となった。北の丸はここを囲む堀を掘った残土を積み上げた土塁が周囲に築かれている。堀はかなり広くそして深い。説明板ではこれでも2m程当時の堀が埋まっていると言うからさらに深い堀であった。

北の丸の堀を挟んだ南側のすぐの所に本丸があるのだが、本丸見学は最後の方に残しておき、堀に沿って二の丸の北の帯曲輪を通って城の西の橋にある西ノ丸に向かう。この帯曲輪は西の丸、西の丸馬出しの周囲にある障子堀の外側にめぐらされている。


[西の丸]  西の丸の周りにはこの城の目玉である障子堀がある。

西の丸へは帯曲輪から障子堀にかかっている土橋を渡り高台に登って入る。

西の丸は守りを主眼に置いている曲輪で、敵が攻めてくると想定される西の方向に物見台が設けられている。


[西櫓]  西の丸の更に西に攻撃のための出丸がある。北条氏はこれを角馬出と呼んでいた。案内板では西櫓と呼ばれている。武田氏の半円形の馬出は有名。北条氏は半円形でなく四角。これは初めて知った。

西の丸からこの西櫓の角馬出を見ると四角の形がはっきりと分かる。(写真上) 西櫓の北側には物見台があり、富士山が臨める。この馬出の西櫓側には土塁は築かれていない。敵がこの馬出を占拠した場合に西櫓からは無防備となり西櫓から攻撃できる様になっている。非常に合理的な仕組みになっている事には感心する。

この西櫓は西の丸から西の丸畝堀で独立しており、やはり障子堀で囲まれている。この障子堀は戦国時代に築城された城の堀には良く使われている事は知っていたが、見たことはなかった。実際にその形が残っている城跡を見たのは初めてで、想像していたものより素晴らしかった。この山中城には様々な形の障子堀が残っている。


[元西櫓]  西の丸から本丸方面に向かうが、まだ二つの曲輪が防御ラインラインとして造られている。西の丸から進と堀が溜池の機能を果たしていた部分があり、そこを越えると、元西櫓が二の丸の手前にある。


[二の丸 (北条丸)]  元西櫓から二の丸虎口に架かる橋を渡ると二の丸にはいる。

二の丸は平坦ではなく、傾斜がついている。この傾斜は元々この様だったのだろうか? ここには少し疑問を持った。この傾斜は二の丸内を移動するには非常に不便な程きつい坂になっている。それにこの傾斜はは外側に向かって下っている。これは敵が攻めてきたときに丸見えになり、守るには非常に不利に思える。ここについては聞いてみたい。何故この様な傾斜をつけていたのだろう。この様な傾斜のある曲輪は見たことがない。元西櫓に面して櫓台跡がある。


[本丸] 二の丸から本丸堀の本丸虎口に架かる土橋を渡ると本丸。土橋は今は存在しておらず木橋がかけられている。ここに櫓台が設置されていた。

本丸へは北の丸からも深い堀に架かる橋で繋がっている。

本丸には本丸広間が現在の藤棚の場所にあったそうだ。


[天守櫓]  本丸の一角に天守台跡がある。それ程大きな規模でなく、中世の山城らしさが出ている。


[兵糧蔵]  本丸の敷地の下に兵糧蔵があった曲輪跡がある。これが当時の大きさと同じように復元されているのかは分からないが、長期の籠城にはどうかと思う規模。多分、北条氏は小田原城は籠城も視野に入れた作りだったが、ここのような出城は長期にわたる籠城は想定していなかったのではとも思う。

もう日が暮れ始めている。まだ城の半分しか見学が終わっていない。後は三の丸と岱崎出丸が残っているが、全部は見れないだろう。三の丸は後まわしにして岱崎出丸に向かう。時間が有れば、三の丸も見てみよう。



岱崎出丸 (だいさきでまる)

秀吉の小田原征伐に対抗する為に、従来の城の三島側に出丸を築き始めたが、未完成のまま開戦となった。ここに出丸を築くことにより、小田原に侵攻する秀吉軍を従来の城の二の丸、三の丸から挟み撃ちを狙っていた。ここがまずは秀吉軍の攻撃目標となり、多勢に無勢で全滅し陥落した。

岱崎出丸を囲むように堀を築いていたが、終戦後この堀は埋められ、石畳の箱根旧街道が作られた。


[出丸御馬場]   三の丸側の出丸。馬場と呼ばれているが、馬を待機させていたのだろうか。

深い堀と二段の土塁で防御されている。


[岱崎出丸]

ここにも障子堀が造られている。


[すり鉢曲輪]   中心部が窪んで丁度摺鉢の様な形になっている。何故ここ様な形にしていたのだろう。何か理由があるのだろうが、調べたが不明。

見張り台があり、ここからは秀吉の大群が箱根に向かい進軍して来るのが手に取るように見えただろう。どんどんと緊張感が増して来ていたのだ。

岱崎出丸からは富士山が綺麗に臨める。

見学を終えた時点で日没を迎えた。三の丸を見る事は出来なかった。三の丸の一部が駐車場になっている。いつかここに戻って来ることがあるだろう。三の丸見学はその時まで取っておこう。

この後、三島まで県道の歩道をゆっくりと走る事にする。まだ山の中なので、真っ暗で自動車道路の走行は危険だ。



笹原一里塚

山中城を出てしばらく走った所に一里塚。日本橋より27里、27番目の一里塚。26里目の - 山中新田一里塚は走ったルート上には無かった。多分旧道の山道の中にあるのだろう。

後は、宿はに向かって坂道を下るだけ、三島の町の明かりを目指し走る。宿に到着した時はクタクタ。ハードな1日だった。