【読書コラム】何者 - 就活という物語の交叉点 執筆者:KJ
こんにちは!今回も彩ふ読書会(2020年1月東京)で課題本となっていた本について、コラムを書かせていただきます。お題となる作品は朝井リョウの「何者 *1」。いつものように、ネタバレも気にせず書いていきますので、未読の方はご注意願います。
就活という物語の交叉点
すでに読んだ方ならご存知の通り、この小説は就活をめぐる物語です。そのため、このコラムでは物語についての考察に入る前に、そもそも就活とはなんなのか?を考えてみたいと思います。
就活とは組織に構成員として就職するための活動ですが、その形態や組織との関係は様々です。バイトやパートを探す人もいれば、公的機関への就職を目指す人、フリーの働き手としてエージェント企業を見つけたい人だっているでしょう。しかし、この物語の中で描かれるのは、おおむね株式会社の正社員になろうとする人たちですので、今回のコラムではこのタイプの就活に限っての話とさせていただきます。
会社側から見た場合の正社員の役割とは、自身の判断で動きつつ、周りを巻き込んでビジネスができる人たちです(実際にそういう人たちを全ての会社が適切に扱えるのかという問題はあるのは事実ですが)。エンジニアや経理、企画や営業など、どんな分野であれ、正社員に関して言えば、ただ上司の言うことを聞くだけの人を求めているわけではないのは明らかでしょう。
であれば、就職で求められるのもまた、自社の内外に対してビジネスができる人であるのは必然だと言えます。では、そもそもビジネスとはなんなのでしょうか?
一口にビジネスと言っても様々な捉え方がありますが、一つの見方として「複数の参加者が、お互いの持っている価値を交換しながら富を増大させていく過程」と見ることができます。これは、消費者と生産者のあいだの関係のことでもありますし、複数の会社が協業してより大きな価値を生み出すことでもあります。そして、言うまでもなくこれは組織内でも同じ構造を見ることができ、「組織を作ることで一人一人が個別に生み出す富の合計以上の価値を生み出すことができる」ことが会社という組織の存在理由でもあると言えます。
要するに、WIN-WINを生み出すのがビジネスの基本だと言えます。ビジネスにおける契約や取引が成立するのは、どのような形であれ、お互いがそれをしないよりしたほうが利益が大きいと感じるからです(ここで言う利益は必ずしも金銭だけを意味しませんし、その利益量が平等であるかどうかも問いません)。もっとわかりやすく言うと、1+1を2以上にすることがビジネスの基本であり、その2以上になった分というのが企業の「利益」と呼ばれるものと言えます。
つまり、一つの捉え方として、自分の利益と他人の利益を調和させることがビジネスの本質だと言えます。市場経済とは必ずしも、誰かの利益が誰かの損失になるようなゼロサムゲームではなく、全体利益を増大することができるノンゼロサムゲームです。
さて、ここで視点を再度就活に戻してみたいと思います。上記の「ビジネスとは何か?」という観点から就活を見てみると、企業が重視する能力が見えてきます。それは、「他人とWIN-WINの関係を構築できるスキル」です。
WIN-WINの関係を生み出せる人は富を生み出すことができますし、その関係が結べない人とはビジネスの場でコミュニケーションをすることができません。就活で重視されていると言われる「コミュ力」とは、自分の利益と他人の利益を調和させる力だと言えると思います。
だからこそ、就活では「志望動機」が第一に聞かれるのでしょう。就活を経験した人ならわかると思いますが、就活における「志望動機」とは「あなたは弊社にとってなんの役に立ちますか?」という言葉の言い換えです。就活生は、この「志望動機」に対する問いに対し、自分のエピソードを踏まえて、そこから学んだ力やスキル・特性を述べたのちに、それが会社の理念や事業に対してどのような価値を生み出せるかを答えることが求められます。
このように、言いにくい言葉をオブラードに包んで学生に空気を読ませる企業側のやり方自体は誠実ではないと思いますし、「志望動機」という問いに正面から答えた人が評価されない構造はそれはそれで問題だと思いますが、今回の論点はそこではありません。
ここで言いたいのは、就活で求められるのは自分の利益と会社の利益を結びつける力、そしてそのような関係を表現する力だということです。言い換えれば、自分の物語と会社の持つ物語をなんらかの形で結びつけ、それによって新たな価値を生み出すことができる人が就活というゲームで勝ち抜ける人です。
これを暗示しているのが、瑞月の以下の一連の言葉です。
『「今までは、一緒に暮らす家族がいて、同じ学校に進む友達がいて、学校には先生がいて。常に、自分以外に、自分の人生を一緒に考えてくれる人がいた。学校を卒業って言っても、家族や先生がその先の進路を一緒に考えてくれた。いつだって、自分と全く同じ高さ、角度で、この先の人生の線路を見てくれる人がいたよね」』(250ページ)
『「一緒に線路の先を見てくれる人はもう、いなくなったんだよ。進路を考えてくれる学校の先生だっていないし、私たちはもう、私たちを産んでくれたときの両親に近い年齢になってる。もう、育ててもらうなんていう考え方ではいられない」』(252ページ)
多くの場合、就活までの人生では、自分の物語と他者の物語は極めて近いように見えますし、コミュニティと自身の物語は必然的に接続されているからこそ、新たな接続を主体的に生み出す機会はほとんどありません。「学校」や「家族」や「地域」といったコミュニティの物語は、自身の物語と不可避的に接続されているため、黙っていても向こうから歩み寄ってくれることを期待できます。
しかし、就活はそういうものではなく、自分の方から主体的に他者の物語との接続を構築していかなければなりません。これが就活の難しさです。それまでは、自分が頭を下げて頼まなくても並走してくれた他者という存在ですが、就活以降は自分からその接点を探し、「物語の交叉点」というべき場所を作っていく必要があります。
もちろん、一人で卓越した業績をあげられる人ならその限りではありませんが、世の中の多くのスキルや技能がコモディティ化した現代においては、そのような違いを生み出すのは容易ではありません。むしろ一人で価値を生み出せる量は限られているがゆえに、他人との協業ができる人が社会で求められるのではないでしょうか。
主観と客観の狭間で
さて、就活で求められる能力を考えてみたところで、視点を物語に戻してみてましょう。ここで注目したいのは、拓人と理香の2人です。終盤の印象的なシーンにおいて激論(実際は理香の一方的な糾弾ではありましたが)を交わした2人に注目して、この「何者」という物語を見ていこうと思います。
この2人について語るにあたっては、見逃すことができない対比構造があります。すなわち、「拓人・理香」と「光太郎・瑞月」の対比です。この2組の行動様式の違いは「内定」の有無という、極めて身もふたもない形で明確に描写されています。すなわち、就活で勝つことができた2人と勝つことができなかった2人の対比と言っていいでしょう。
言うまでもないことですが、僕は別に内定の有無によって人間の「良い/悪い」の全てを論じるつもりはありません。それは一つの価値観だとは思いますが、それが全てだと考えるのはバランスを欠いていると言えるでしょう。以下の議論はあくまでも、内定の有無という価値観を前提とした場合のものであることはご了承ください。
所詮はフィクションなので無駄な問いなのかも知れませんが、なぜこの2人が内定を取れたのかを考えてみましょう。そこでヒントになるのは、先の章で考えた「就活」についての考察です。つまり、就活で求められているのは「自分の物語と会社の物語を結びつける力」だということです。
物語を読んだ方なら、ピンときた方もいると思います。そう、内定を得られた2人は、自身の持つ物語と会社で働くことを極めて密接に結び付けられることができていました。親の世話をしなければならないという物語を持つ瑞月はエリア職として働くことを選び、光太郎は想いの人との接点を持つために出版業界に入ることを決めました。
もちろん、就活の面接でそれをどこまで語ったのかはわかりませんが(おそらく、比較的理解を得やすい瑞月はともかく、光太郎はその本心を語ってはいないだろうと思います)、いずれにしても、会社で働くことと自身の個人的な事情・願望を結びつけるという、就活で求められる能力を持っていたからこそ内定が得られたのだと考えられます。光太郎に対する瑞月の以下のセリフは、それを端的に表していると言えるでしょう。
『「光太郎は、自分の人生の中にドラマを見つけて、そのドラマの主人公になれるんだよ」』(261ページ)
ここでいう「ドラマ」という言葉は、このコラムでいうところの物語と言い換えられます。ここで瑞月は光太郎に対して羨ましいという感情を発露させてはいるものの、自己を駆動するための物語は瑞月自身も持っていたのは明らかです。それが本人にとっては不服だったのかも知れませんが、社会との接続をするためには十分な機能を果たしていたと言えるでしょう。
繰り返しになりますが、この2人は自身の物語と会社で働くことをうまく接続できており、会社と自分との間でWIN-WINの関係を見出すことができた、それが内定を得られた理由なのだと思います。
翻って拓人と理香を見てみると、この2人はそのバランスが悪いと言わざるを得ません。すなわち、拓人は他人を見ることに集中するあまり自分の物語という視点が見られず、逆に、理香は自分がどう見られたいかに固執するあまり、会社側の視点を見失ってしまいました。
拓人が客観的な視点に立とうとしていたことは言うまでもないでしょう。これは終盤に理香が指摘している通りです。拓人は周りの人たちや世の中の動きを注意深く観察し、それを冷静に分析することで、自分が周囲の状況を一番よく理解しているというように振る舞っています。思いを寄せているであろう瑞月と、尊敬しているであろうサワ先輩を除き、一見すると本音で話しているようにも見える光太郎も含めて、全方位的に見下し、批判するような視点を送っています。
物事を冷静見ることはおそらく必要なことでしょうし、それ自体が悪いことだとは全く思いません。自分のやっていることを客観的に見つめる視点も非常に大事なことでしょう。問題は、何事に対しても批判的な視点を持ちすぎて、それを自身にもむけてしまった結果、自分の欲望や物語を素直に肯定できなくなってしまったことです。
『そんなの絶対無理だろう、と、どこか冷めた目で自分たちのことを見ている自分がいた。』(153ページ)
『自分たちから漂う痛々しさを、俺は、どうしても見過ごすことができなかった。』(153ページ)
この言葉は拓人の偽らざる本音であり、これこそが彼・二宮拓人の憂鬱を端的に表していると言えます。社会学者の荻上チキ氏が『僕らはいつまで「ダメ出し社会」をつづけるのか』という本で、現代人に向けて『今あなたに求められているのは、「誰かを採点し続ける側」という、無敵だけど非生産的な場所に留まることではありません。』と言っていることからもわかる通り、この憂鬱は多くの現代日本人が抱える憂鬱でもあるのだと思います。
この憂鬱を看破し、鋭い指摘を与えているのが理香だと言うのは大きな意味を持ちます。この理香の糾弾に対して、清々しさと苛立ちが入り混じった複雑な心境を抱いた人も多いのではないでしょうか。
「何でもお見通し」という斜に構えた態度の人に対する我々の苛立ちを端的に指摘していると同時に、「意識高い系」と世の中で言われる人たちを嘲笑する自分自身に向けられているようにも聞こえてしまう。そんな、自身が抱える矛盾を炙り出す強い力を持った言葉であるように思います。この辺りは、朝井リョウさんの小説家としての力量なのでしょう(これは、朝井リョウさん自身に向けた言葉でもあるのかも知れません)。
さて、次に拓人に鋭い言葉を投げた、その理香について見てみようと思います。「意識高い系」という言葉がしっくりくる存在である理香ですが、就活に苦戦していることからもわかるとおり、やはり拓人同様に自分の物語と他者の物語のバランスを欠いているよう見えます。しかし、バランスの崩れ方は拓人と対極です。
拓人の憂鬱が、客観的視点に囚われすぎたことであるとするならば、理香の苦悩は主観的視点に囚われすぎたことだと言えると思います。もしかしたら、理香が主観に囚われすぎたというと、疑問を感じる人もいるかも知れません。なぜなら、一見すると理香は、周りからどのように見られるか、つまり客観的な視点を気にしていたかのように見えるからです。
しかし、僕はそのようには考えていません。他人からどう見えるかを気にしていたのは事実ですが、それはあくまでも自身の価値観に基づく視点であり、自分と違う価値観を持った他人からどう見えるかという目線があったとは思えません。
グループディスカッションで、うんざりしているメンバーを気にせず場違いな自己PRをしてしまったり、就活が進んでいる周囲に対してあまりにも露骨な当て擦りを言ってしまったりする理香に、本当の意味で他者から見てどう見えるかを想像する視点があったとはとても思えません。
理香がイメージする他者からの視点は、漠然と「海外を良し」とする主観に基づいたものでしかありません。そうではない人たちから見てどのように見られるのかに対してはあまりにも無頓着なので、ひどく空回りしているように見え、それ以外の価値観を持つ人たちとコミュニケーションを取るのが難しい…
これは邪推になりますが、これは理香が「WEBテストに受からない」ことにも現れているようにも思います。
客観的視点とは言い換えれば論理的・抽象的思考のことです。主観的な言葉というのは共感を呼ぶには役に立ちますし、それはそれで重要なものだと思いますが、物事を筋道立てて誰にでもわかるように話すには(要するにコミュニケーションをとるには)この抽象的思考力は欠かせません。
具体的なWEBテストの名称は書かれていませんが、就活でよく利用されるWEBテストは概ねこの論理的思考力・抽象的思考力に重きを置いているのが一般的です。そのWEBテストになかなか受からないという現実は、物事を客観的に捉えるメタ的な視点が欠けているためであるとも考えられます。
要するに、理香は肥大化しすぎた自意識によって自己を肯定する価値観に囚われてしまい、客観的視点を見失ってしまったわけです。そう考えてみると、客観性に囚われて主観を見失った拓人と、主観性に囚われて客観性を見失った理香は両極の立場にあると言えるでしょう。
前章で考察した通り、就活で評価されるには、自分の物語と他者の物語を重ね合わせる必要があるります。しかし、拓人は自分の物語の欠如によって、理香は他者の物語の欠如によってそれを語ることが出来なかった。それが内定がとれなかった理由ではないかと考えられます。
2人が共通して言っていることは「なぜ内定が取れないのかわからない」。その答えは、双方がお互いに軽視しあっている視点に目を向けようとしないからでしょう。この2人が最後に決定的な対立を起こすのは、ある意味必然だったのかも知れません。
念のため補足しておくと、この2人をかなり辛辣な形で書いてしまったものの、この2人の人格自体を否定するつもりはありません。現代日本で、異質な他者とのコミュニケーションを学べる場は多くないでしょうし、社会人であってもそのバランスを欠いている人は大勢います。これを書いている僕自身もまだまだ至らないところがあるのは疑いのない事実です。
追い込まれた状況だったり、自身の尊厳が傷つけられている状況で視野が極端に狭くなってしまったり、自分が傷つかない客観的な視点に立とうとするのは仕方のない部分も多いでしょう。物語の人物にこういうことを言うことは無駄な事かもしれませんが、就活を通してそれを学ぶことができたなら、それはそれで悪いことではないと考えます。
想像力の持つ力とその限界
ここまで議論したことは、就活で求められる力は「自分の物語と他人の物語を調和させる力」であること、そして、拓人は自分の物語の、理香は他人の物語の欠落によってそれがうまくいかなかったということです。最後に、自分の物語と他人の物語を結びつける「想像力」について考えてみたいと思います。
この小説を読んだ方ならわかると思いますが、この「想像力」という言葉は物語を通したキーワードの一つだと言えるでしょう。
『光太郎のいいところは、想像力があるところだ。きっとサークルの打ち上げは最高に楽しかっただろうし、この寄せ書きもめちゃくちゃうれしかっただろう。(中略)だけどそれを、むやみやたらと発信したりしない。するとしても、その感情に共感できる人たちに向けてのみ発信する。
光太郎は、その事柄に全く関係の無い人が「最高の仲間!」とか「みんな大好きありがとう!」とかそういう文面を見たとき、瞬く間に心が冷えていくことをきちんと想像できる側の人間だ』(37ページ)
これは拓人の光太郎への思い。そして、以下は「なんちゃってアーティスト」の隆良が就活する面々に言い放った言葉。
『「就活就活って人を見てると、なんか」
(中略)
「想像力がないんじゃないのかなって思う。それ以外にも生きていく道はいっぱいあるのにそれを想像することを放棄してるのかな、って」』(87ページ)
そして、この言葉に対する拓人の内心は
『やっぱり、想像力がない人間は苦手だ。
どうして、就職活動をしている人は何かに流されていると思うのだろう。
(中略)
「就職をしない」と同じ重さの「就職をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。』(87〜88ページ)
これらの言葉からわかることは、拓人が自身の想像力に強い自負をもっていることです。実際に彼の言っていることはかなり的を射ているようにも見えますし、その他の部分の冷静な分析を見ても、その自負はそこまで間違っていないように思います。
しかし、そんな想像力豊かな拓人に対し、サワ先輩はこう言い放ちます。
『「拓人さ、前、言っていたよな」
その小石は、サワ先輩の足元まで転がっていって、止まった。
「隆良とギンジは似てるって」
(中略)
「全然違うよ、あのふたり」
サワ先輩は喫煙所で煙草を一本も吸わなかった。
「いくら使っている言葉が同じでも、いくらお前が気に食わないって思うところが重なってたとしても、ふたりは全く別の人間なんだよ」
(中略)
「ほんの少し言葉の向こうがわにいる人間そのものを、想像してあげろよ、もっと」
想像。
「俺、お前はもっと、想像力があるやつだと思ってた」』(202~204ページ)
このシーンが、拓人にとって大きな転機となるシーンだったことは容易に想像できます。なぜなら、自身の人間観察や他人の心理への想像力への自信を揺さぶるものであったからです。それが拓人にとって「何者か」であるための大きな心理的な基盤であり、かつそれを指摘したのが尊敬するサワ先輩だったらからこそ、この言葉は重かったと思います。
さて、ここでサワ先輩がこの会話で指摘したかったのは何なのでしょうか?煙草を吸わないのに喫煙所に来たり、本当はわかっているはずの図書館への道を案内するという名目で2人っきりになる場を作ってまで伝えたかったこと…
この言葉を文字通り受け止めるなら、単に拓人の想像力の不足を糾弾しているだけのようにも読めます。
しかし、僕がこのセリフを読んだ時に感じたのは、拓人の想像力の欠如を指摘したかった「わけではない」ということです。そうではなく、自身の想像力を過信し、その実態を理解しようとしないことに対する批判ではないか、というのが僕の考えです。要するに、サワ先輩は自分の頭の中だけでの想像することの限界を教えようとしているのではないでしょうか。
前章では、拓人と理香を見比べながら、客観に偏りすぎて主観を見失うことと、主観に偏りすぎて客観を見失うことを対立構造として捉えてきました。しかし、その解釈はおそらく正確ではありません。なぜなら、客観というものがそもそも想像上のものでしかないからです。主観を通してしか世界を知覚することが出来ない人間にとって、完全なる客観性などというものはあり得ず、どれだけ考えても主観を離れることはできません。その意味で主観と客観を対立項と認識するのは無理があります。
『ひとが全面的に理解しつくすのはただ自分自身だけであって、他人については半ばしか理解しない。半ばというのは、せいぜい彼らといくつかの概念を共有するぐらいのところで、それらの根底にある直感的な把握をともにするほどにはなりえないからである。』
これは18~19世紀のドイツの哲学者・ショーペンハウアーの著書「知性について」からの引用ですが、この一言がその全てが物語っていると言えるでしょう(最も、現代からみると、自分自身のことすらも理解しつくすことはできないのではないかと言いたくはなりますが)。
結局、どんなに想像をたくましくしたとしても、他者の考えることはわからない。だからこそ、人はSNSの裏アカウントを見るとギョッとしてしまう。多くの場合、そこに書かれているのは自分の想像の外側のことであり、それを目にした時、自分が確信を持っている人物像を信じられなくなってしまう…
また、その客観性の限界は、物語における瑞月の描かれ方にも現れているように思います。登場人物の誰もが、裏表のある一筋縄ではいかない人物のように描かれているにも関わらず、拓人が好意を寄せる瑞月については眩しいほどに屈託なく、ただただ「良い子」として描写されています。
もちろん、瑞月が裏表のないタイプだという可能性も十分にあります。しかし、その極端なまでの純粋さは、好きな人の汚い部分を見たくないという、拓人の無意識の願望が現れているようにも思えてきます。
いずれにしても、拓人の誤謬はここにありました。自分の想像するギンジ像や隆良像を信じすぎた結果、主観を通して得られるものと向き合う努力をしなくなってしまったことが最大の問題です。頭の中にある「客観的」な視点とは主観に基づいているにも関わらず、自分の内なる欲望や欲求を含めたその「主観」に本当の意味で向き合うことができていないという矛盾…それが二宮拓人の憂鬱の本質ではなかろうかと思うのです。
ゴールに辿りつかないレースをいかに走り続けるか
もちろん、そこに限界があるからといって他者の物語への想像力が無意味なものだと言うつもりは全くありません。実際に、理香はそれが不足していたからこそ行き詰まってしまったと思われます。他者とコミュニケーションをするためには、自分の物語と他者の物語を重ねる「物語の交叉点」が必要があり、そのためには他者の物語を想像することがどうしても必要になってくる。
他者の物語を懸命に想像し、それを自分の物語と結び付けようと努力する。時にそれが壮大に空ぶったり、ぶつかったりしながらも、なんとかそこに調和を生み出そうとする行為、それこそが就活に限らず他者とのコミュニケーションのあり方ではないかと思うのです。
大事なことは、想像力を駆使しつつも、完全なる客観などあり得ないこと、自分の想像の外側の世界があること、そう言った想像力の限界に自覚的であることではないでしょうか。
しかし、それは言葉で言うほど簡単ではありません。想像力がなければ人と結びつくのは難しいけれど、想像力には限界もあり、どこまでいっても本当の意味で他者を理解することなどできない。それは、自分が正しい方向に向かっているという確信もなく、それでいて目的地には絶対にたどり着けないことだけがはっきりしている中で走り続けるという状況に例えることができます。
自分がその状況に身を置くことを「想像」すればわかるとおり、それは明らかに困難を伴います。人間はどうしても意味を求めてしまうものだから、一見すると無意味しか思えないこの行為を続けるのは、時に苦痛であると言えるでしょう。
しかし、この努力をやめた瞬間、退廃の一途を辿るであろうことは想像に難くありません。相手の物語を想像しようとする努力をしなくなれば、自分にとって異質な存在を排除することにつながるでしょう。自分の物語を無条件に受け入れてくれる極端なナショナリズムやその真逆の極端な反体制主義に与することになるのかもしれません。
それが暴力や破壊、他者の人権を害するような極端な対立に発展しない限りにおいては必ずしも否定されるものではないかも知れません。実際問題として、日常の全ての場面で他者に対する想像力を張り巡らせるのも不可能だと思います。しかしそれでも、他者を大切にするためには、この努力は継続しつづける必要があります。
だから、僕は考えたいのです。ゴールには決してたどり着かず、近づいているかどうかもわからない状況の中で、いかにして想像力を膨らませることができるのかを。ともすれば、他者への興味を失い、居心地のいい自分の物語に安住してしまいがちな時代だからこそ。
結び
今回は朝井リョウさんの「何者」を読んで感じたこと、考えたことを書いてみました。この考察とて僕の主観の基づいたものでしかなく、毒にも薬にもならないのかも知れませんが、読んだ方に対してなんらかの刺激になり、何かしら行動・意識を変えるきっかけになったのなら幸いです。
「何者」については考える切り口が色々あり、今回のコラムでは語れなかったような話もたくさんあります。その中で今回の論点を選んだのは、この本を読んでいた時に拓人・理香の2人に対してなんとなしの共感と痛々しさの感情を抱いてしまったためです。
どこまで就活やコミュニケーションというものに切り込めたかはわかりませんが、この文章を書くことで自分なりの現時点での落とし所にはたどり着いたのかなという気はします。
それでは、また。
*1 ペ ージ数は全て新潮文庫版のものになります。
朝井リョウ『何者』(新潮文庫「新潮社」、2015)
参考文献
荻上チキ『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想』(幻冬社新書「幻冬社」 2012)
ショーペンハウエル『知性について 他四編』(岩波文庫「岩波書店」1961)
菅野仁『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える』(ちくまプリマー文庫「筑摩書房」2008)