「ノモンハン英魂之碑」と副碑。
(あしあと その31・中央区の29・護国神社の10)
彰徳苑の9つ目の碑。「ノモンハン英魂之碑」です。高さ3メートル、重さ30トンもの自然石が台座に鎮座する堂々たる碑は、威厳と風格を感じさせます。
巨大な石碑の裏面に碑文が刻まれた石板がはめ込まれているのがわかります。
それには、次のように刻まれています。
「碑文
昭和十四年五月満蒙国境ノモンハン附近ニ紛争起ルヤ 当時北満ニ駐剳中ノ 我ガ第七師団ノ諸部隊ニモ出動ノ命令ガ下リ 六月以降逐次コノ戦闘ニ参加シテ 敵ノ機械化部隊ニ対シ勇戦奮闘 克ク守備ノ任ヲ果シ北鎮部隊ノ名声ヲ高揚シタリ 然レドモ肉弾体当リノ敢闘ハ停戦ニ至ル僅カ三ヶ月ノ間ニ 千五百有余名ノ戦友ヲ遠ク異境ノ地ニ散華セシメ 尚二千余名ノ将兵ガ傷ツクニ至レリ 噫 爾来年ヲ経ルコト 二十有八年我等生キ残レル戦友歳ト共ニ思慕ノ情切々タリ此処ニ戦友相倚リ相図リ 特ニ遺族他各方面カラノ協力協賛ノモトニ之ノ碑ヲ建テ永ク英魂ヲ祀リ其ノ鎮座ヲ祈念スルモノナリ
昭和四十二年九月十六日 ノモンハン戦没将兵慰霊碑建立期成会会員一同識」
碑の右前に置かれた副碑には、こう刻まれています。
「英魂之碑由来
巍然としてまろやかに 威あって猛からず 在りし日の君を彷彿 護国の礎石となりて 御魂此処に鎮まる
ノモンハン事件は、旧満州国興安北省ホロンバイル草原ノモンハン地区において、満蒙国境線をめぐり、昭和十四年五月十一日から同年九月十六日の停戦に至るまで、日満軍対ソ連モンゴル軍の双方が死力を尽くした史上空前絶後ともいうべき凄愴なる肉弾戦であった。
第七師団将兵も六月二十日より逐次これに参加し、三ヶ月に亘る戦闘で、不幸にも千五百有余名が遠く異郷の地に散華したるは誠に痛恨慟哭の極みというべきである。今や日本は平和国家として、世界に冠たる経済大国に成長したが、この陰には戦没者の尊い犠牲のあることを銘記すべきである。さきに我々はノモンハン勇士の遺徳を偲び昭和四十二年九月十六日英魂之碑を建立し、この度建碑二十年に当り茲にその「由来碑」を建立するものである。
(ハルハ河をふりかえり一兵士が詠む)
うしろ髪ひかるる思いぞハルハ河 戦友の遺体(すがた)を如何で忘れん
英魂之碑の構造及石材の種類 碑銘揮毫 須見新一郎(元歩兵二六連隊長)
正面巾 六メートル 奥 行 五メートル 碑 石 神居古潭系油石(自然石) 三〇屯 石 垣 京都風石積み 角閃岩 階 段 茨城県稲田産 白みかげ石 塀 垣 研磨した 角閃岩 床 石 十勝産 青みかげ石 台 石 角閃岩(自然石) 二五屯
昭和六十一年九月十四日 ノモンハン英魂之碑顕彰会」
また台座の前から碑を見上げると巨大な石碑のすぐ右下に小さな石板が置かれていて、それには、
「ノモンハン事件五十周年の平成元年八月悲願の現地慰霊がかない本道から慰霊団に参加された一行が遠く異境の地に眠る魂魄の安眠を願い万里を越えて故国に持ち帰えった砂を英魂の碑のもとに埋めてとこしなえに鎮座を祈念する
ノモンハン英魂の碑顕彰会讃」
と刻まれています。
ノモンハン事件は、この碑文に書かれているとおり、満洲国とモンゴルとの国境線を巡る日ソ両軍の衝突事件のことです。この戦闘の最大の衝突は、7月3日から5日にかけての戦闘で、ノモンハンに流れるハルハ河を越えて進行してきた敵側の機械化部隊に対し、我が軍の歩兵26連隊などの兵士が遮蔽物のない炎天下で激闘を繰り広げました。8月後半に入ると友軍の死傷者が続出し、部隊は次々と全滅の悲運に遭いました。最終的に戦闘を支えるのは第七師団が中心となりましたが、数多くの死傷者を出す中、9月18日の夜を期して総攻撃を行う命令を受けていたところ、15日にモスクワで停戦協定が交わされました。この戦闘による日本軍の戦死傷者は約1万9千人。遠い異国の地でこれだけ多くの被害を出した局地戦の結果、それ以後の日本軍の兵器は近代化が一層図られることになりました。