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「親和 札幌市中ノ沢土地区画整理事業完成記念碑」。

2016.02.05 14:55

(あしあと その320・南区の93・中の沢の5)

五輪通を真駒内から川沿、北ノ沢へと進み、さらに道なりにずっとまっすぐに行くと、閑静な住宅街のはずれに中ノ沢神社があります。

市道に面した鳥居をくぐってすぐ右手に、黒御影石でできた大小の三角形を3つ前後に重ねた形状の石碑があります。これが中ノ沢地区の土地区画整理事業を記念して建てられた「親和 札幌市中ノ沢土地区画整理事業完成記念碑」です。

後方にある一番大きな三角形には月と星、左手前の中くらいの三角形には山と川、右手前の一番小さな三角形には小鳥がそれぞれ彫られており、台座の右側には、同じく黒御影石でできた石板がはめこまれ、それには「親和 札幌市中ノ沢土地区画整理事業完成記念碑」と刻まれています。

一番大きな三角形の碑の背面には、「碑銘 新しい街で集いなごみ親しみ合う「藻岩グリーンタウン」」と刻まれています。

この碑に向かって右側には、金属板がはめ込まれた半球形の白御影石が添えられており、その金属板には次のように記されています。

「札幌市中ノ沢土地区画整理事業誌

この地、中の沢はかつて、「五号ノ沢」と呼ばれ、昭和16年、町名が変更され「中の沢」となるまでは、川沿(旧本通)、北の沢(四号ノ沢)、南沢(八号ノ沢)とともに「八垂別」と総称されていた。八垂別とは、アイヌ語で「淵の川」という意味から来ている。明治9年に設置された山鼻屯田兵の公有財産地として札幌本府建設の建築用材の供給地として、木こりが出入りする程度であった。

しかし、明治25年(1892年)には富山県より瀬川忠二郎氏が新天地を夢見て入植し、同28年(1895年)に山鼻屯田兵、森万蔵氏が給与地に通い開墾に当たった。

その頃、この地は原始林がうっそうと繁る昼なお暗い人跡未踏の地で開墾は艱難辛苦を極めた。大正末期までには43戸が入植したが、山火事や水害などの自然災害が多発し、離脱し、転出者が相次いだ。

大正末期以降は、残留し、開拓に成功した25戸が中心となって蔬菜を中心とした農産物の一大産地として発展し、近年までに及んだ。しかし、札幌市の急速な発展に伴って、隣接地に市街地化の波が押し寄せるなどの時代変化の状況から地区内に権利を持つ有志が土地区画整理事業による街づくりを掲げ、生活基盤の転換を決断した。

地権者が協議を重ね、札幌市に市街化区域の編入を要請するとともに昭和63年8月1日(1988年)札幌市中ノ沢土地区画整理組合が設立し、5年余の歳月を経て念願の理想の郷「藻岩グリーンタウン」の整備に成功した。

本事業は着手以来、いわゆるバブル崩壊や、円高不況など多くの不測の事態や困難もあったが、札幌市初の一括業務代行方式を採用することによって、民間活力の積極導入と本組合との確固な連係によって幾多の困難を克服して、他に誇る街づくりを為し遂げた功績により本組合は、平成5年度建設大臣表彰の栄誉に浴した。

この成功は、札幌市を初めとした各関係機関の適切なご指導と、役員組合員の一致協力の結晶であり多くの人々と共に喜びを分かち合いたい。

ここに本事業の完成を記念して、この碑を建立する。」