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「紀念碑」。

2016.12.07 14:10

(あしあと その432・西区の14・琴似の3)

札幌市西区役所前庭にある石碑群の中央に位置する「紀念碑」。台座の上に三角錐の形状をした石碑が置かれています。碑面には、上部に「紀念碑」の篆刻が施され、その下に漢文が刻まれています。

碑文には、

「明治二十九年朝廷改軍政新置第七師団於北海道以管屯田兵於是北門之防備始成矣而琴似屯田實爲之端六年定屯田制募東北諸縣壯丁八年始編行伍稱屯田兵第一大隊第一中隊爾後布置屯田若干所皆取範焉則所以大成者安得無諸士率先奉公之誠蘊於積年之間而顕於今日乎十年西陲亂属別働第二旅團轉戰乎薩隅之間有功篆賞十四年 聖駕北巡故能久親王代巡賜若干金二十四年三月編豫備役二十八年有事干清國應充員召集次東京會和成五月旋軍尋編後備役村在札幌西北街衛相接兵民同里田園穣穣穀〇桑麻莫不熟欝乎爲楽郊矣闢地三千五百町有寄戸四百五十餘在兵籍者二百四十戸而其三十二家族発寒村頃日相議建紀念碑來請文乃作銘曰

居則良民 出則干城 殖産竭身 以答聖明 維斯子孫 永保盛名

明治三十年一月 従三位勲二等陸軍中将男爵永山武四郎篆額撰文横山順倫書」

と刻まれています。

台座の背面には金属板がはめ込まれており、それには碑面に刻まれた漢文の書き下し文が、次のように記されています。

「明治二十九年、朝廷 軍政を改め、新たに第七師団を北海道に置き、以って屯田兵を管せしめ是に於いて北門の防備始めて成れり。而して琴似の屯田之が端となる。六年、屯田制を定めて東北諸県の壮丁を募り、八年、始めて行伍を編して屯田兵第一大隊第一中隊と称す。爾後、屯田若干を付置する所、皆 範を焉に取る。 則ち大成する所以は、安んぞ諸士 率先奉公の誠 積年の間蘊むこと無くして今日に顕れんや。十年、西陲の乱に別働第二旅団に属して、薩隅の間に転戦し、功有りて篆賞せらる。十四年、聖駕 北巡し、故能久親王巡りて若干金を賜う。二十四年三月、予備役に編せらる。二十八年、事 清国に有りて充員召集に応じ、次いで東京の会和成り、五月、軍を旋し、尋いで後備役に編せらる。村は札幌の西北に在り、街衛相い接して兵民 里を同じくし、田園は穣々として穀〇と桑麻と熟欝せざる莫く、楽郊為り。闢くこと三千五百有町、寄戸四百五十余、在兵籍者二百四十戸にして其の三十二家族発寒村なり。頃日、相い議して記念碑を建てんとし、来たりて文を請う、乃ち銘を作りて曰く

居りては則ち良民 出ては則ち干城 殖産に身を竭くして

以って聖明に答う 維れ斯の子孫 永く盛名を保てよ

明治三十年一月 従三位勲二等陸軍中将男爵永山武四郎篆額撰文 横山順倫書

(書き下し 北海道教育大学札幌分校教授 後藤秋正)」

碑群の前に立てられた説明板には、

「記念碑(通称・・琴似屯田開村記念碑)

北海道で始めての屯田兵が琴似地区に入植し、その後琴似村へと発展した足跡と、屯田兵の功績を記念して明治三十年(一八九七年)一月、現在の琴似神社拝殿付近に建立される。」

と記されています。

説明板には「記念碑」と記されていますが、碑面の篆刻には「紀念碑」と刻まれているので、正しくは「紀念碑」になると思われます。当初建立されていた琴似神社は、現在碑が置かれている西区役所前庭の市道を挟んで真東に位置します。