「上手稲開村碑」。
2018.06.24 10:20
(あしあと その598・西区の42・西町の2)
手稲記念館の前庭にあり、「手稲開基百年記念碑」に対面して建てられているのが「上手稲開村碑」です。
台座の上に置かれた大きな自然石でできた碑の碑面には、「上手稲開村碑」と刻まれた碑銘の下に、細かい漢文の文字が刻まれていますが、碑の位置が高いのと文字の一部が風化していて解読が困難になっています。
碑の背面には十数人の人名が刻まれているようですが、これも判読が困難になっています。台座には「賛助員」の氏名が多数刻まれています。
石碑の脇には説明板が建てられており、それには
「明治4年、旧仙台藩士片倉小十郎邦憲(白石城主)が北海道開拓を命ぜられ、その家中(家臣)150戸241人が翌5年に入植したのが、この地(上手稲)の草分けであり、手稲発祥の地と言われています。この碑は、上手稲に集団移住した先人たちの苦心と開村の事情を後世に伝えるため、半沢新三郎ら青年会有志が発起人となって、明治43(1910)年11月3日に建立されたものです。
隣の手稲記念館が新設された昭和42年に、西町北20丁目にあった元、上手稲神社の境内から現在地に移築されました。」
と記されています。
この説明板には、北海道開拓を命ぜられた片倉小十郎が家臣を引き連れて入植したことが記されていますが、当初の入植地は現在の白石であり、その中から三木勉を隊長にした241人が上手稲に移住したのが手稲の開基と言われています。