「開拓判官 島義勇像」。
(あしあと その675・中央区の221・大通公園の26)
札幌市役所の1階ロビーにあるブロンズ製の「開拓判官 島義勇像」です。北海道神宮の境内にもありますが、どちらも北海道の開拓にあたって中心地となる札幌をはるかに見渡す、力がみなぎる姿となって再現されています。
台座には、
「開拓判官 島義勇像
河水遠流山峙隅 平原千里地膏腴 四通八達宜開府 他日五洲第一都 島義勇賦
昭和四十六年十月 原田与作書」
と記されています。
台座の上に置かれた説明板には、
「河水遠流山峙隅 平原千里地膏腴 四通八達宜開府 他日五洲第一都
河水遠く流れ山隅に峙(そばだ)つ 平原千里の地膏腴(こうゆ) 四通八達宜(よろ)しく府を開くべし 他日五洲第一の都
(明治二年 冬 作詩)
この詩は、開拓判官島義勇が札幌開拓の着手にあたって、札幌の洋々たる前途をぼくしてよまれたものであり、元市長原田與作氏(昭和34年5月~昭和46年4月在任)がこの庁舎の竣工を記念してこれを揮ごうされたものである。」
と記されています。
台座の背面には説明板が貼られていて、そこには
「島義勇は佐賀藩士で、明治二年(一八六九年)七月開拓使が設けられたとき判官に任ぜられ、最重要の地石狩地方の責任者となった。
当時石狩平野は海岸こそ開けていたが、内陸は全くの未開地であった。
安政四年(一八五七年)箱館奉行に従って全道及び樺太南部を巡回し、既に北方の事情に通じていた義勇は、北方の開拓を進めるためには札幌の地に中心を移す必要があるとし、十月末雪を踏んでこの無人の地に入り、ここに京都を模して整然とした区画割を行い、都市建設に着手した。
時あたかも降雪期で雪中の大事業であったため思わぬ出費が重なり、義勇は、翌年二月東京に召喚されたが、その遠大な意図は後継者に受け継がれ、北海道の首都である今日の札幌市の基礎をなしたのである。
ここに新市庁舎を建設するに当たり、その偉業を想い、その理想の実現を期してこの像を建立する。
昭和四十六年十月 札幌市長 板垣武四」
と記されています。この像は、彫刻家の山内壮夫によるものになります。