シューマン記念館(デュッセルドルフ)を訪れて①
デュッセルドルフ市の旧市街地の中で文化的な通りである<ビルカーシュトラーセ(ビルカー通り)>には、
ロベルトとクララ が最期を過ごした住まいが遺されています。
このトンネルの左側の部屋が記念館です
シューマン一家がドレスデンからデュッセルドルフにやってきたのは1850 年。夫妻の友人達の尽力によって、ロベルトはデュッセルドルフで音楽監督を務めることになり、この年の9月デュッセルドルフへ移住しました。
「シューマン夫妻はデュッセルドルフに住んだ3年半の間に全部で5回、クララのみの引越しも入れると6回も引越した」 そうです。(クララのみの引越というのは、シューマンの死後、 ここの家の家賃を払えなくなったクララがこの家から西側に 平行しているポスト通りに引っ越したことを示しています。ク ララと子供達は二階に住み、一階にはなんとブラームスが 住んでクララを支えたと言うことでした。) 短期間に大家族での5回の引越しというのは大変な回数…夫妻は居心地のよい住居を探すことに非常に苦労したことでしょう。
シューマン夫妻が引越した5回の住居はすべてこの記念館 から徒歩10分圏内に点在し、そのどの住所もデュッセルド ルファー(デュッセルドルフで生まれ育った地元の人のこと をこう呼びます)にとっては、馴染み深く、シューマン一家を隣人に感じられる場所ばかりです。
シューマン一家はデュッセルドルフに移り、デュッセ ルドルフ市の大歓迎を受けました。その証拠に、市は街の中心に位置する最も豪華なブライデンバッハホテルをシューマン一家の出迎えのために用意する、という粋な計らいで丁重にもてなしました。1999年〜2008年にホテルの建物は完全に壊され建て直されてしまったので、現在は当時の形を見ることはできませんが、今も市内で最も高級なホテルが再オープンしています。
数週間後、シューマン一家が最初に住まいを構えたのは アレー通り782番地(現在のハインリッ ヒハイネアレー44 番地)でした。前記のホテルと同じ一角のすぐ真裏となります
ですがここは騒音が酷く落ち着いて生活できなかったので、9ヶ月後、カスタニエン通り252番地に転居します。この住所は現在ではケーニクスア レー46 番地で、 高級ブランド店が続く通りの一角、現在はクリスティアン・ディオールが店を構えています。しかしこの住居はシューマン一家が住み始めた後に売りに出される
こととなり、また9ヶ月で引越しをしなければなりませんでした。
2つの住居が街のど真ん中だった反省点を補うためか、次の住居はこの2つの住まいから徒歩10分ほど離れ た、当時の新興住宅地ヘルツォーク通り15 番地に引越しをし ました。この通りは現在も名前を変えずに在り
ますが、当時 シューマンが住んでいたと思われる場所には大きなビルが 建っています。
そして今回ご紹介する彼らが一番長く住んだ、ロベルト・シューマンの最期に住んでいた部屋(現記念館)へ移り住むことになります。
この記念館へは、建物の間のトンネルを抜け、通りの裏側ある入り口から入館します。
このビルカー通りの建物は当時ワイン屋アッシェンベルク の持ち物で、1階は彼の仕事場として使われており、 3階建ての2階、3階がシューマン一家の住まいだったそうです。
シューマ ン夫妻はこの住居を大変気に入っていたそうで、何より部屋の仕切りは家族にとってこの上なく機能的。夫妻は2階をロベルトの仕事部屋と家族の主要住居スペース、3階をクララの仕事部屋と子供部屋として使い、 夫妻の仕事部屋が階を隔て離れたことにより、初めて同じ家の中でお互いの音に翻弄されることなく仕事や練習に打 ち込むことができたのだそうです。
入館し、館長ドクター・ラブゼックさんの使用する事務兼関連資料などの置かれている場所を抜けると、
ドアを背にしてすぐ左手壁一面 に、ロベルトとクララの大きな写真4が織物(約縦 3m×横 2m)に印刷され、かけられています。写真の大きさもあり、 圧倒的な存在感を放っている二人の姿に、あっと言う間にタイムスリップさせられます。この写真は夫婦が唯一 写真館で撮影した貴重な写真だそうで、1850年、ルイ・ジャッ ク・マンデ・ダゲールによって発表された世界初の写真撮影法ダゲレオタイプ(銀板写真)という手法で撮影された写真ということでした。自宅に戻ってからこの写真の撮影法について調べたところ、1840年にこの方法で撮影されたモーツァルトの奥さん(コンスタンツェ)の写真も残されているそうです。
この大きな写真の前にはターフェルクラヴィアー(古いスクエアピアノ)が置かれています。残念ながらシューマン夫妻の所有していたオリジナルピアノではないのですが、夫妻の所持していたピアノと同じピアノ組立工によって作られた、同じ型のオリジナルピアノだそうです。
近年この記念館を訪れた日本の著名なピアノ組立工の方は、この楽器に書かれた製作者の名前を知っており、本物のオリジナルピアノだと太鼓判をおしたそうです。このピアノの製作者、 ピアノ組立工であったヨハン・ベルンハルト・クレムスは1840年デュッセルドルフに作業場を構えたということですが、彼の作業場はビルカー通りと平行しているホーエ通りに面し、シューマンの住まいととても近かったことがわかり、親交が深かっただろうと予想できます。クレムスの製作したこのピアノは1851年にロン ドンで発表され、 のちにウィーン、パリでも公開されていきました。
ピアノが認められ始めると、クレムスはデュッセルドルフに音楽サロンを構え、プライベートコンサートなどを催し、 そこでさらに彼の理想とするピアノの音を探求し磨きをかけていったそう。シューマン夫妻もこのサロンコンサートで演奏したといいます。
1853年9月ロベルトは2人の13回目の結婚記念日、そして結婚記念日の翌日のクララの34歳の誕生日を祝って、ク レムスの製作したグランドピアノをプレゼントしました。このグランドピアノを贈った時にロベルトによって作曲されたの が“WoO26, No.4”オレンジとミルテ”だそうです。
なんとも鍵盤が 軽く、チェンバロのような感覚、そしてこの感覚の通り、音はチェンバロにほんの少しピアノの重さが加わったような音色でした。ハンブルクのブラームス博物館にはブラームスが 実際にレッスンに使用していたターフェルクラヴィーアが現 存しているそうです。