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「札幌開祖志村鐡一碑」。

2012.07.20 00:15

(あしあと その3・豊平区の1・豊平の1)

豊平川に架かる国道36号の豊平橋。その橋のふもと、川の右岸側にホテルの建物があり、その敷地の一角に一人の男の功績を讃える「札幌開祖志村鐵一碑」の石碑が建てられています。

碑面には大きく「札幌開祖志村鐡一碑」と大きく刻まれ、碑の台座正面には、

「札幌開祖志村鉄一碑由来の記

氏は信州の剣客にして石狩調役荒井金助氏の招きに応じ安政四年(一八五七年)に移住して幕命を受けて豊平川渡守となり駅逓を兼ねる この地より約百二十米川下が氏の住宅の遺跡たり この碑は大正九年当時の札幌神社禰宜野村茂氏がその場所に建立したるものであるが 新豊平橋の完成にともない昭和四十二年七月に橋台小公園に市がこれを移転安置せるものである

尚この碑の筆跡は当時の北海道帝国大学総長佐藤昌介氏の揮毫せるものである

昭和四十二年八月 札幌開祖志村鉄一碑顕彰保存会」

と刻まれた石板がはめ込まれています。

また、台座の背面には、

「氏ハ信州乃(の)剣客尓(に)して石狩調役荒井金助乃(の)召に応し安政四年移住幕命を受けて豊平川渡守となり駅逓を兼ぬこの地ハ氏乃(の)住宅乃(の)遺趾た里(り)

大正十年記」

と刻まれています。

その昔、札幌の中心部を縦断する豊平川を越える手段は渡し舟でした。現在の国道36号の前身となる街道の辺りに初めて渡し場が設けられたのは、明治維新の約10年前。一人の男が渡し守として幕府の命を受け、その任に就きました。その男は、後に“札幌開祖”と呼ばれる信州の剣客、志村鐵一(てついち)です。彼は未開拓の北海道に単身で乗り込み、茅屋に住みながら渡し守を勤めました。当時の豊平川の水量は、現在の約5倍以上もあったそうです。維新後、志村は開拓使から幕府寄りと見られ、冷遇されて一方的にその任を解かれた後、定山渓に向かう途中で消息を絶ちました。