「報(頌)徳碑」。
(あしあと その199・北区の12・篠路の7)
「北海道百年記念」碑の後方に鎮座するのが、「報(頌)徳碑」です。石燈籠を2基備えた奥に建てられた碑石は、小樽市銭函にあった自然石でできており、高さは約2.5メートル、台座を含めると約3メートル強の高さになる立派なものです。碑面の上部には、「報徳碑」と記された金属板がはめ込まれています。
その下には金属製の説明板がはめこまれ、それには
「興産社の社長の滝本五郎は、徳島(阿波)の生まれで、幼少の頃から聡明であった。開拓精神に富、明治十四年に弟の阿部興人・原文吉・近藤庫太郎などと相談して、札幌郡篠路(拓北)の地を開墾したが、その十七年間は困難をきわめた。しかし、粘り強く頑張りついに六百九十町を開拓し、農民百五十人を入植させる偉業を達成した。明治二十三年には藍の製造で全国一等賞を受賞し、さらに明治二十九年藍綬褒章を受賞したが、明治三十二年十月九日病のために六十四歳にて惜しまれて逝去した。その業績に対して次の言葉を贈り、その徳を讃えます。
剛健なり、金銭堅固なり、自ら辛酸をなめ、風雪に耐え、勤倹に勤め、慈愛に満ち、鬱蒼たる荒れ地を開き、藍の栽培で国を富ませ、その素晴らしい功績がこの地に永久に留まることを祈念いたします。
功績多大のため、その一端を掲載するのみです。
追記
既存の報徳碑は、建立から百七年も経過し、刻印された文字も薄れ読み辛くなりましたので、簡略な現代文に改め開拓魂を引き継ぐ絆といたします。
平成十九年八月十九日 唐牛 繁三」
と記されています。
真新しい金属板には「報徳碑」と記されていますが、「さっぽろ文庫45 札幌の碑」には、「正面上部に右書きで「頌徳碑」と大書し」と記されているように、この碑が元は「頌徳碑」と称されていたことがわかります。おそらく、新たに金属板にその記録を残す際に、「報徳碑」としてしまったのではないかと思われますが、今では想像に過ぎません。
碑の左側面には、「発起人」として多数の氏名が刻まれていますが、その一部は風化してしまって判然としません。
碑面の説明板に記されているように、この碑にはもともと碑銘が刻まれていたのですが、時間の経過とともに風化して読み難くなってしまったことから、金属板に変えて後世に遺すことにしたようです。ただ、私がこれまで多くの石碑を見るようになって感じるのは、別に案内板を建てるなどして、石碑を建てられた当時そのままの状態で残すことはできなかったのかという点であり、風化された碑面を覆い隠すように金属板がはめ込まれたことはちょっと残念に思います。