「月寒開基百年之碑」。
(あしあと その204・豊平区の24・月寒公園の3)
月寒公園のボート池をぐるりと回って小高い丘を上がったところに、「月寒開基百年之碑」が建っています。
黒御影石の碑面の上部には、「月寒開基百年之碑 北海道知事 町村金吾」と、さらにその下の石板には
「時は明治四年(1871年)えぞ地開拓のため開拓使の要請により旧盛岡県人四十四戸百八十五人が故郷の盛岡を出発したのは旧三月十日のことであった宮古港より小樽に渡航し銭凾を経て月寒に達し人跡未踏の山野にいどみ幾多のかん難を克服し開拓の鍬を奮って開こんに従事したこれが月寒の草分けである顧りに国土開発の至情に燃え敢然故国を離れ遠い未開の地に入りよく月寒発展の基を築かれた先人の労苦誠に察するに余りがある今や開基百年を迎え我等開拓者の遺業を偲びこれを顕彰するためここに碑を建立して永く後世に伝えようとするものである
昭和四十五年九月七日 月寒開基百年記念顕彰会」
と刻まれています。
また碑の背面には、「明治四年月寒草分移住者氏名」として岩瀬末治団長以下44戸の氏名が刻まれた石板がはめ込まれており、その下には、石板について「撰文 齋藤重雄 揮毫 大井好石」であることが記されています。
碑の左前部に説明板が建てられており、それには
「【月寒開基百年之碑】
この碑は、月寒開基百年にあたる昭和45年9月、明治初期の月寒を開拓した先駆者の労苦をしのび、その偉業をたたえて地元の有志により建てられました。
月寒に入植した人たちは、南部藩士が主体の80戸の募集移民のうちの44戸(185人)で、岩瀬末治が世話役となり、月寒坂上(現在の月寒東2丁目あたり)に開拓使が建てた4棟の長屋に移り住みました。
土地は室蘭街道(現国道36号線の原形)の両側をおよそ3.3haずつ区切り、開拓使はこれをくじ引きで割り当て、その土地を広げるのは個人の努力次第でした。
入植した土地には、ナラ、イタヤ、などの大木が立ちならび、その下には人間の背丈以上のクマザサが密生していて、足の踏み入れようもないありさまでした。
このような土地を、移住前には鍬も持ったことのない人たちにとって開拓するのは大変なことであり、開拓者の中には、野良仕事や冬の寒さに耐えられなかったり、借金のかたに土地を他人に取られたりして、郷里に逃げ帰る人もいました。
開拓地も10年の歳月が流れると開拓との戦いに敗れて去る者もいましたが、新たな入植者も増えてきました。そして明治18年、19年ごろから土地の値が上がったこともあって、農業人口は次第に増えていきました。
このように、44戸が月寒の草分けとして入植してから100年以上の年月が流れましたが、その名をとどめているのは、吉田善治、似鳥仁太郎、長岡重治、岡田駒吉、岩瀬末治などの子孫にあたる人たちだけとなりました。」
と記されています。