「開町五十年記念碑」。
(あしあと その235・豊平区の33・月寒公園の7)
「吉田善太郎功労碑」の左に位置するのが、「開町五十年記念碑」です。この碑も鎖に囲まれた敷地の中央部に建っているため、遠目では碑面の文字が判然としません。資料によると、碑銘の「開町五十年記念碑」の脇に、「北海道庁長官 笠井信一」と刻まれているそうです。
碑の背面にも文字が刻まれてますが、そのほとんどが風化して読み取ることができないそうです。
碑の前面には説明板が建てられ、それには
「【開町五十年記念碑】
この碑は、豊平町開町50年にあたる大正9年に、当時の有志によって建てられました。
豊平における和人(日本人)の最初の定住者は、安政4年(1857)、豊平川の渡し守となった志村鉄一ですが、本格的な開拓が始まったのは、明治4年、岩手県から65戸が平岸に、44戸が月寒に入植してからです。また、このほか阿部與之助など単独移住者も少なくはなく、開拓に励んでいました。
しかし、開拓使の保護政策が打ち切られると、たちまち苦境に陥り、明治初期の入植者で、最後まで踏みとどまった人は少数でした。
豊平の成長期は、自力開墾による第二次開拓期ともいうべき、明治20年代に入ってからです。
厳しい気候風土の中で冷害凶作などの天災に負けない農業改良を探求すべく、明治21年には、白石、上白石、豊平、月寒、平岸の5カ村の有志が、札幌有志農談会を結成し、後に品評会を開催するなどして、品質の向上を競い合うまでになりました。
豊平村の室蘭街道(現国道36号線)筋には、明治23年ごろから、馬車、馬橇、馬具、蹄鉄業をはじめ、食料品店、飲食店などが開店し、次第に商店街を結成していきました。
平岸村では本格的な果樹園がはじまり、明治27年の統計によれば、札幌近郊のリンゴ生産額は、全道生産額の約8割を占めていました。
月寒村では明治29年に軍隊が条中(のちの月寒駐とん部隊)したことにより、街道筋に焦点が増えはじめ、明治30年には郵便受取所が開設されました。
このように3カ村がそれぞれの条件下で発展しながら、明治35年に合併して豊平村となり、さらに明治40年には一級町村制がしかれ、明治41年、豊平村は豊平町と改称、明治43年に札幌区(市)に編入し、現在の発展に至っています。」
と記されています。
豊平町が札幌区に編入された明治43年、豊平町役場が月寒に移転されましたが、平岸地区の住民の利便を図るため、陸軍の力を得て連絡道路が建設されました。この道路は「アンパン道路」と呼ばれ、現在も市道として使われています。