「阿部與之助表懿徳碑」。
(あしあと その236・豊平区の34・月寒公園の8)
月寒公園内のかつてパークゴルフ場であり、現在は散策路に整備された敷地に、巨大な自然石の碑があります。これが「阿部與之助表懿徳(あべよのすけのいとくをひょうする)碑」です。
碑の周囲は鎖で囲まれているので、近くに寄ることはできません。資料によると、碑の上部には「表懿徳碑」と篆刻されており、その下に漢文の碑文が細かく刻まれています。
碑の背面には、「大正元年十一月落成之 有志者」と刻まれているそうです。一部には大正9年に建立されたという説があるそうですが、碑に刻された大正元年が正しいのではないかと思われます。
碑の前面には説明板が建てられていて、それには
「【阿部與之助表懿徳碑】(あべよのすけのいとくをひょうするひ)
この碑は、豊平村の発展に多くの功績を遺した、阿部與之助をたたえて、大正9年(※大正元年との説もあり)、当時の有志によって建てられました。
與之助は、天保13年(1842)12月11日、山形県飽海郡南平田村字北俣で、5男2女の3男に生まれましたが、生家は貧しく、わずかな田畑を耕すかたわら、日雇いなどをして細々ながら、その生計を支えていました。
明治に入ってから、前途有望な北海道での開拓を夢見て、明治3年7月、単身30歳で北海道の岩内に渡りました。
しかし、未知の土地では職がなく、岩内で漁夫を、その後札幌に移り、商店で働きながら、農業自営を目指して貯蓄に励みました。一方、生家は増々貧困の度を深め、それを知った與之助は心を痛め、翌年資金を懐中に一路郷里へ戻りました。
明治5年の春、與之助は北海道での開拓の夢を捨て切れず、再び本格的な営農を目指し、豊平村に永住することを決心しました。
與之助はかつて豊平川の渡し守をしていた志村鉄一から土地を買い求め、開墾のかたわら雑役夫を、妻チノは茶屋店を開くなど夫婦力を合わせて働き、10年もたたないうちに広大な田畑を所有する村内有数の地主となりました。
與之助は明治維新の社会変動の中で、生活に苦しむ郷里の人々を救済したいという願いを実現するため、郷里から63戸の農民を誘致して入植させ、稲作を奨励し、さらに稲作発展のため、用水路建設の必要性を説き、豊平・平岸・白石・上白石の4カ村連合の用水路建設に多くの私費を投じました。
また、開拓が進むにつれて、森林の荒廃が目立ち始めた明治19年以降には、造林、育苗の事業を起こし、林業の普及に力を入れる一方で、道路や橋の建設、小学校の創設、消防組の編成、役場庁舎建設費の負担など、多方面にわたる業績が残されており、村人の敬慕を一身に集めながら、72さの生涯を終えました。」
と記されています。
阿部氏が当時の豊平村に永住を決意し、豊平川の渡し守であった志村鉄一から譲り受けた土地は、一反歩(約10アール)を65円の分割払いで購入しました。その後10年ほどで村内有数の地主にまで成長した阿部氏の土地は旧豊平町内一円に及び、道路改良の際に土地を寄付したり、豊平・平氏・白石の各小学校の建設にあたって私財を投じるなど、町の発展に大きく寄与しました。