「荒井金助直盈之墓」。
(あしあと その309・北区の19・篠路の13)
篠路にある龍雲寺の境内には、篠路の開拓にゆかりの深い二人の人物のお墓があります。
その一人が荒井金助直盈(なおみつ)で、一番右側に建てられた札幌軟石で造られた墓石に、大きく「荒井金助直盈之墓」と刻まれています。
墓石の背面には、「直盈氏之碑」と題された碑文が刻まれていて、それには荒井金助の足跡が漢文で克明に記されています。
この墓石のすぐ脇には、「荒井金助と早山清太郎ゆかりの地」の小さなモニュメントが置かれていますが、残念ながら壊された状態のままとなっていました。
その一面には、
「江戸時代末期、幕吏荒井金助は石狩地方開拓のため、発寒にいた「在住武士」配下の早山清太郎に命じて篠路を調査させ、農民を入植させた。早山は、石狩地方で初めて米づくりに成功したのを始め、篠路の開墾、道路開削などに貢献し、明治維新前後の札幌開拓の基礎を築いた。龍雲寺には2人の墓がある。」
と記されています。
その後、説明板が新しく建て替えられ、そこには、
「荒井金助と早山清太郎ゆかりの地
江戸時代末期、幕吏荒井金助は石狩地方開拓のため、発寒にいた「在住武士」配下の早山清太郎に命じて篠路を調査させ、農民を入植させた。早山は、石狩地方で初めて米作りに成功したのを始め、篠路の開墾、道路開削などに貢献し、明治維新前後の札幌開拓の基礎を築いた。龍雲寺には二人の墓がある。」
と記されています。
また、荒井金助の墓の上台の側面には、「荒井家累代之墓」と題された荒井一族の墓誌が掲げられています。
荒井金助は、安政4年に石狩役所調役として札幌の地に赴任後、志村鐡一と吉田茂八の二人に豊平川の渡し守を命じました。さらに石狩の地に開墾地を求め、現在の篠路の前身となる荒井村のほかに、厚田の望来にも入植地を開き、石狩地方の発展に貢献しました。