「北門開拓 現如上人之像」と副碑。
(あしあと その410・札幌近郊の1)
札幌市と喜茂別町を結ぶ国道230号の頂点にある中山峠。交通の要衝であるこの峠の喜茂別町側に、大きな全身像が建てられています。
これが、明治初期に道なき道を切り開いて伊達市から札幌市豊平区澄川までを結んだ本願寺道路の建設の総責任者として白羽の矢が立った現如上人の像です。
碑の台座には、「北門開拓 現如上人之像」と刻まれ、その下にはブロンズ板がはめ込まれています。
ブロンズ板には、
「頌徳文
現如大谷光瑩上人ハ東本願寺第二十一世巖如上人ノ法嗣、明治三年二月勅命ヲ蒙ッテ京都ヲ出發、一百余名ノ部下ヲ率イテ本道ニ渡リ新道切開、教化普及、移民奨励ノ三大目的達成ニ粉骨砕身努メラレタ、今回上人ノ北門開拓百年ヲ迎ウルニ當リ、上人十九歳ノ英姿ヲ刻ミ、永ク遺徳ヲ顕彰景仰スルモノデアル
昭和四十二年十月八日 現如上人銅像建設期成會」
と記されています。
台座の背面には、「御台座御修復 施工有限会社マルミヤ 宮島石材店 二〇〇〇年十月八日 真宗大谷派 北海道教区」と刻まれ、さらには
「設計、制作 大淵陽一 藤庭賢一 題字揮毫 町村金五 頌徳撰書 多屋 弘 鋳造 金井工芸鋳造所 石工 阪下石材商店」
と記されたブロンズ板がはめ込まれています。
ブロンズ像の左脇には副碑が置かれ、それには次のように刻まれています。
「現如上人銅像の由来
北海道に於いては道南の一部を除いては昔から道路いうものは全く無かった。幕末になって幕府は国防上の見地から、漁業関係者に命じて海岸の難所にだけ道路を造らしめた
明治元年(一八六八)新政府は 北海道を早急に開発するという基本方針を決定した これは北方から外国が侵入する危険を憂慮した国民多数の世論を反映したものである さて北海道を開発するについては 道央のサッポロに中央官庁を設置すべきであるが 内陸には道路が無い そこでサッポロへの新道切開きが北海道開発第一の急務となった しかし新政府には収入が乏しく これを実行するための財源がない 新政府は東本願寺に懇請して来た 宗祖親鸞聖人は「世の中安穏なれ 仏法ひろまれとおぼしめすべし」と申された その精神を継承する東本願寺は世界の平和と仏法弘通のため 新政府の懇請を承諾し「新道切開 農民移植 教化普及」の三要項を柱として 北海道開発事業に着手した
山岳重畳する内陸に新道を切開くことは難事であるが 工事完成に要する膨大な資金を短期間に集めることは一層の難事である 東本願寺は十九才の若い現如新門主を総責任者とし 明治三年二月京都本山出発より一行が通過する東海 東山 北陸 奥羽の東本願寺門徒に寄付を依頼した そして京都より引率した僧俗一百数十名の外 仙台支藩の武士や多数の人々の協力を得て 明治四年七月新道完成 直ちに官庁が札幌に開設され それを中核として北海道の開発は急速に進められた
新道は太平洋岸の有珠から中山峠を経て札幌に至るもので 札幌と凾館とを結ぶ最短距離である のち地方費道に編入され 更に国道に昇格 多額の国費を以って大規模に改修され 現在年間数百萬人に利用されている
昭和四十四年(一九六九)現如上人の渡道開教百年に当り 上人を始めこの工事にたずさわった多くの人たちの労苦に感謝し その功績を顕彰せんがために 真宗大谷派北海道教区は僧俗の浄財を以って因縁深き中山峠に この銅像とレリーフとを建設した次第である
なお銅像建設工事並びに護持については地元喜茂別町の支援を蒙ること多大である 記して謝意を表する」
碑の背面には、
「建設 真宗大谷派北海道教区 協力 喜茂別町 撰文者 嗣講 多屋 弘 昭和五十四年十月八日建立」
と刻まれています。
本願寺道路は、延長約100キロの未開の地を延べ5万5千人により約4年の工期で切り開いて完成しましたが、その2年後には室蘭ルートが完成して札幌への交通の中心となり、急速に衰退しました。工事には真宗大谷派の門徒や仙台支藩からの移民などが中心となって行われましたが、その陰では多数のアイヌ人が動員されて酷使されたといわれています。