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東洋式疑似餌釣研究所

静かに確かに

2020.02.06 12:52

この国には四季がある。


堅く閉ざされた冬枯れの季節ももうすぐ終わる。

禁漁期が終わればまた渓流の季節が来る。


この時期になると、私に本流のルアーフィッシングたるものを教えてくれた師匠の事を、その言葉の意味を思い出す。


「毎年、テーマを持って釣りをする」それが上達への道だと。


あの頃、私はスプーンで本流を釣ることに夢中になっていた、どうやってあの流れを、どうしたらあの魚を、と四六時中考えて考えて、週末に答え合わせをするのだが、当然思い通りに攻略する事が出来ない。


果てしなく遠い目標だとしても、それを繰り返し、繰り返し抜いて答えに近づいて行く感覚は、その頃に身についた。


さて、私の釣における、今年の主題(テーマ)は何か?


今は、突きつけられた自問に答える事が出来ない。ストイックな精神や嘗ての情熱はそこにはもう無いのかもしれない。


しばらく前から、技術やテクニックと呼ばれる類いへの興味関心を得られないでいる。


魚が釣りたいか?と問われれば。

釣りたいと答える事は出来るが、ただ釣りたいのでない、楽しく釣りたいのだ、自分の釣で、面白そうな釣を、我侭に釣りたいのである。


子供の頃は、もっともっと限りなく釣りたいと。

そこに泳いでる魚類は全部釣ってやると本気で思ったいた。


それから文字通り夢中で駆け抜けてきた。


10年前は、筑後川の鱸釣に熱をあげていた。

一晩中釣をしてやがて夜が明けて、朝日が昇るのを幾度となく見てきた。


しかし今はどうだ?


年老いた猫が好奇心を失う様に、自分の気持ちの深い部分から熱という物がするすると或いはじわりじわりと、失われて行く。


人の一生を四季に例えるなら、今、私が踏み入れた季節は夏の終わりか、秋の始まりか何れにしても数十年後に終焉を迎える準備の時期に入ろうとしているのであろう。


今はもっと多くの釣師に逢いたい。


釣師が見てきた世界は、釣りをしない人の見てきた世界、釣りをレジャーでやってるだけの人とは違う。


本物に逢いたい。


本物でないとわかり合えない世界がある。

当然、誰にも理解されない私の釣もある。


だだ、その人に逢えた時に、終わらない楽しい時間が待っている事は間違い無い。

だから可能な限り会いに行くのは変わらない。


仲間の数人に言われた事がある。

もう十分に釣りしたではないか?と。


確かに俯瞰して見れば、そんなものかも知れないけれど。


ゆっくり続けて行きたいのだ。


釣には、それがわかる人間しかわからない感覚がある。飛躍的な釣果とか圧倒的な刺激とか何かを釣に求めてはいない。


魚に針が掛かる前の瞬間的な感覚、あの何も無い、無の一瞬だけを忘れたくないだけだ。

何となくそこに魚がいる気配、その辺を通る予感。


今まで磨いてきたそれらは、釣りを休んだら失われてしまう気がする。


もしかしたら、年齢的な問題で釣りを続けていても失われてしまう感覚なのかもしれない。

私がどのような、状況になろうとも、春は静かに確かにやってくる。


視力は落ちたがまだ時間は掛かるがラインは結べる、渓流だってまだまだ歩けるはず。


本流の冷えや押しの強い流れには耐えられないかも知れないが、まだ行ける。


さあ、魚が渓が仲間が待っている。