「屯田兵顕彰之像」。
(あしあと その428・北区の41・屯田の11)
屯田開拓顕彰広場の左奥にある巨大な石碑が「屯田兵顕彰之像」です。
モニュメントを背景にして、遠い上空を指さした屯田兵の立像が台座中央に置かれています。
台座の正面には黒御影石の石板がはめ込まれており、それには
「屯田兵顕彰之像
わが町 屯田の基礎を築いたのは 屯田兵第一大隊第四中隊で 明治二十二年七月十五日 二百二十家族 千五十六人でこの地に入植した
この屯田兵には二大使命があった
一つには屯田兵として北辺防備の第一線に献身する
二つには北海道開拓の先駆者となることであった
この地に入植した屯田兵は 熊本県の四十六戸 山口県四十三戸 和歌山県三十七戸 石川県三十二戸 徳島県二十九戸 福井県二十戸 福岡県十三戸 各県の士族で 寒冷不毛に耐えて家族とともにこの使命に服した
兵は連日厳格な軍律のもと教練を受け家族もまた教令に従って開墾に励み本道開拓の大きな使命を遂行 大自然の猛威もよく克服して子孫のため 楽土建設に汗を流した
本道開墾が進むにつれて融雪期には石狩川の氾濫洪水の参加を受けしも 土を愛するのは農民の魂である 天災は必ずしも自然の暴威ばかりでなく人為の貧困が天災を生むのであると励ましあい 明治四十五年 土功組合の結成を企画され 水田造成によって部落更生の策は前進したのである 永年に亘っての水田耕作経営により今日の興隆を迎えた
札幌市の急激な膨張発展により 水利権を持ちながらも水不足により 土功組合~土地改良区通算七十余年を経て 解散決意に至り 昭和六十一年三月末日 清算決了 認可を得る ここに屯田開基一〇〇年記念協賛会特別事業に対し土地改良区組合員により醵金によって 屯田兵顕彰之像の建立を実現した
先駆者の偉大な功績を称え今後の屯田町の生成発展を祈念するものである
昭和六十三年七月十五日 屯田開基一〇〇年記念協賛会特別事業委員会」
と刻まれています。
モニュメントの背面には、大小の黒御影石の石板がはめ込まれており、小さい方の石板には
「屯田百年顕彰之像 屯田開基百年記念協賛会特別事業委員会之建 設計者 一級建築士 丹羽 肇 制作 立像 富山県 石黒孫七 謹鋳 躯体 丹羽工務店 石工 ㈲〇小林石材店」
と刻まれています。
また、大きい方の石板には、
「屯田百年の消長と水のかゝわり
一 水を排して良圃となするも
一 水に苛まれ 虎落笛吹鳴の荒野に還らんとす
一 水を利して稲田に瑞穂垂れ 民生安定す
一 水は治り 水涸れ 名水を斉しくし楽土となる
顕彰之像に寄せて
この像は立像 後背構造物 塔座より成る
立像は時の指導者 中隊長渥味直茂大尉の朝礼訓示「忍耐」を旨とし 実践窮行入植五年にして大樹林を伐開 叢篠塞ぐ湿地も高畦栽培に「篠路大根」の名を残させ 見はるかす成墾の良圃七百町歩を暫く鍬を止め 満足感と子孫の悠久の弥栄を希求する姿を具象した
後背構造物は元屯田兵公有財産処分金七万五千円を以って過疎化より脱却すべく七十二戸の在村地主外六十三名の村外地主に依って土功組合を組織 七百町歩を造田開発 一五七戸の理想的経営が行われ札幌市の穀倉となる先人の意を導水門に素朴に造型 二本の柱を新川 創成川に做え 土留板は入植七県を表わす
塔座十段は開基百年を表わし 太しき笠木に剛健な把手を備え 門扉全開を以って知性豊かに協調と調和ある街の楽土たらんことを請い願う
屯田土地改良区は解散に当り 清算人会は屯田開基百年特別事業基金として二億五千万円也を寄託 左の事業の完遂を期す
一 開基百年顕彰之像 碑の建立
一 屯田福祉会館建設
一 屯田百年史編纂
一 屯田郷土資料館建設に関する事業
屯田開基百年記念事業協賛会 顧問 某」
と刻まれています。
広場の前面に立てられた説明板には、
「屯田兵顕彰之像
屯田地区が屯田兵の開拓によって始まり発展したことから、この功績を讃えて建立されたものである。屯田兵のブロンズ像は、時の指導者であった中隊長渥味直茂大尉である。
屯田開基百年記念事業の一環として昭和63年(1988年)に建立された。」
と記されています。