「ヒグマ騒動の地」。
2017.05.24 13:20
(あしあと その515・白石区の34・本通の7)
本通13丁目の住宅街にある東白石会館の前に、説明板が立てられています。
これは、この地が「ヒグマ騒動の地」として語り継がれていることを示すもので、説明板の左側には、「明治11年、白石を通り抜け東区丘珠で仕留められたヒグマ。白石での被害はなかったが丘珠で3人が死亡し1人が重傷を負った(北大植物園に展示)」と添えられた白黒写真が掲げられ、その右側には次のような説明が記されています。
「ヒグマ騒動の地
ここは明治5年(1872)にヒグマが討ち取られ、明治29年(1896)には住民がヒグマに大けがを負わされた場所である。
原野を切り開いて始まった白石の開拓では、ヒグマによる人への危害、家畜・農作物への被害が深刻で、ヒグマが出たという情報が入ると探して殺した。
記録によると、白石ではヒグマに一方的に襲われて人が死亡したことはなく、地元農民に打たれたヒグマが反撃して人が死亡・けがをしたことが2度ある。
明治13年(1880)には、今の平和通1丁目南付近で1人を死亡させ、明治29年(1896)には、今の水源池通で1人を死亡させて、翌日この東白石連絡所付近などで2人に大けがを負わせ、翌日仕留められている。」
開拓当初は原生林が広がるサッポロの地も、入植が進むにつれて人の手が入るようになり、元々ヒグマが生息していた地を追われたヒグマは、人を襲うこともたびたびでした。その記録の中には、手稲~真駒内、白石を経て丘珠で仕留められたヒグマもおり、まさに人間とヒグマとの死闘でした。