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Da vicino nessuno è normale.

Layer Cake【リゾット・ネエロ】

2020.02.07 14:42

 仕事が上手くいったあとは、美味しいお酒が飲みたくなる。最高の服を着て、最高の化粧をして、最高の場所で、最高の男と酒を飲むのだ。買ったばかりのGUCCIのジャケットに身体を包んだロクサーヌは、お気に入りのルブタンを引っ掛けると、黒塗りの高級車の後部座席に座る。

「Hotel Palazzoまで!」

 ガラスの向こうの運転手は小さく頷くと、優しく丁寧にアクセルを踏む。雇用主の機嫌を損ねないように、丁重に彼女を「天国」まで送り届けなくてはならないのだ。

§

 ホテルのバーは気分が良い。若いドアマンに気が利くバーテンダー、洒落たカクテルに品の良い客。ロクサーヌはお気に入りのバーテンダーの前に腰掛けると、ドライマティーニを注文する。程なく用意されるショートカクテル。繊細な彫刻が施されたアンティークバカラを掲げれば、ジュニパーベリーの豊かな芳香がする。滑らかな液体を口に含めば、強いアルコールが忽ちにロクサーヌの粘膜を灼いた。

(ハァ……稼いだ後の酒ってサイコーね。今回の取引は神経を使ったけれど、何とか乗り越えたわ。まだまだ私は昇っていける。私の国は大きくなるのよ。)

 ロクサーヌは南米出身の麻薬ブローカーであり、主に英国の犯罪組織との取引で大きな利を得ていた。命の危険がある仕事。だがいつまでも気を張っていては疲れてしまうし、犯罪組織の一端を担って尚、ロクサーヌは女であった。ロクサーヌはブリーチしたブロンドを掻き上げると、カウンターの端に視線を送る。

 そこに腰掛けていたのは、ブラックスーツを着た大柄な男だった。太い首や厚い胸板、張った肩は、ビスポークスーツを着るのに申し分のない体軀である。男の纏っている艶のある黒いシャツに黒いタイは、短く刈ったプラチナブランドと深紅の瞳に良く似合っていたし、物静かにウイスキーグラスを傾けている姿は様になった。ロクサーヌは、すぐにその男を気に入った。

「ねえあなた、火を貸してくれない?アタシ、ライターを忘れちゃったのよ。」

 ロクサーヌは煙草を摘んだまま、プラチナブロンドの男に声をかける。男はグラスから顔を上げると席を立ち、ロクサーヌの隣へ黙って腰掛け、自分のオイルライターを滑らかに鳴らした。

「ありがと。」

「喜んで。」

「よかったら一緒に飲まない?アタシ、もうすぐ誕生日なの。お祝いしてよ。」

「フン……こんな美人を一人で飲ませるわけにはいかないな。」

「そうこなくっちゃあね。」

 男が煙草を咥えたのを見たロクサーヌは、自分の唇に咥えた煙草を男の近くへ寄せる。男はロクサーヌの意図を理解し、自身の煙草をロクサーヌの煙草の先に押し付ける。ジジ、と煙草の先が燃える音。セクシーな男とのシガーキスは、ロクサーヌの気分を昂揚させた。

「良い夜になりそうだわ。」

「ご期待に沿えるよう努力しよう。」

§

Tanti auguri a te ♪

Tanti auguri a te ♪

Tanti auguri a te a Roxanne ♪

 掠れた声で鷹揚に歌いながら、男はドラム缶に水を溜め続けている。太い蛇口から吐き出されているのは鉄錆臭い工業用水。逆さに吊られた身体の半分ほどをドラム缶に突っ込んでいるロクサーヌは、自分の垂れ下ったブロンドが水に浸かった気配を感じ、恐怖のあまり悲鳴を上げた。

(どうして……どうしてこんなことに……!)

ドラム缶の中は水が跳ねまわる荒々しい音で満ちていて、ロクサーヌの悲痛な叫びを容赦なく掻き消していく。きつく縛られたロープは、身体を捩るたびに足首や手首の皮膚を擦ってロクサーヌを痛めつける。縛りあげられる前に強か男に打たれた所為で腫れ上がった顔は熱を持ち、破られた衣服の隙間からは時折冷気が入り込んでは、日に焼けたロクサーヌの肌を舐めていく。上がり続ける水位。いずれこの水は、ロクサーヌの呼吸を奪うだろう。

「私にこんなことをしてッ!ただで済むと思ってるのッ?!」

 狂ったように叫んでも、その声はただドラム缶の中で反響するだけである。パニックに陥っている合間にも、水位は刻一刻と上がり続ける。頭髪を飲み込んだ水が遂に頭皮に到達すると、ロクサーヌの背筋を一気に悪寒が走り抜けた。

 男はロクサーヌのバックをひっくり返すと、作業台に散らばった小物の中からてんびん座の彫られた銀のシガレットケースを掴む。昔の恋人がロクサーヌの誕生日に贈ったアンティーク。男は耳元でシガレットケースを振ると、愉快そうにそれを開ける。 

 シガレットケースの中身は数本のマルボロ。そのうち一本はLSD漬けだ。ロクサーヌが隠していたカルティエのライターの蝶番が鳴って、それから男の長い吐息が聞こえてくる。

「一本もらったぜ。……8ミリか、煙草の趣味が良いじゃあないか。なあロクサーヌ、おまえは誕生日が近いんだろう。興味がわくぞ。お前は子供の頃、誕生日にどんなケーキを強請ったんだ?トルタ?パスティエーラ?ズコット?ああ、お前はブラジルの出身だったな。俺の知らないドルチェだろうか。」

 大きな影がドラム缶の中を覗き込み、穏やかな声でロクサーヌに語り掛ける。まるで父親が幼い子供を寝かしつける時のような優しい声が、水の渦巻くドラム缶の中に落ちてくる。

 ロクサーヌは母親が用意してくれた手製のチョコレートケーキを思い出す。大昔に捨てた故郷は暑い国だ。どんな料理の味付けもしっかりとしていて、明瞭な味覚で人々を楽しませてくれる。誕生日に決まってねだったのはチョコレートケーキ。こってりとしたチョコレートフィリングが何層にも重なった、とびきり甘い罪の味。その狂暴な甘さを思い出し、ロクサーヌはあまりの懐かしさから涙をこぼした。重力に従い滴る涙が、ドラム缶の中で水と交わる。

(アタシはどこで道を間違ったというの……?家を出た時?悪い男と恋をした時?でも仕方がないことだったのよ。母が病気で死んだのも、アタシがこんな商売に手を染めたのも……。世界はいつでも残酷だった。だから私は……。)

「泣いているのか?ロクサーヌ。もしかしてお前は後悔しているのか?己の人生を走馬灯のように振り返って?ああ……それは愚かな行為だ。粗悪な麻薬でお前は稼ぎ、これまで良い暮らしをしてきたのだろう。お前の肌を飾るダイヤモンド、地位を表すペントハウス。すべてをお前は手に入れた。だがこの世は常に均衡を求める。清算は、必ず行われる。お前が知らないふりをしていただけで、見えざる手はいつもお前のそばにあったのだ。狂った天秤だろうが正しい天秤だろうが、いつかかならず秤は止まり、あるべき均衡を取り戻す。それが俺の仕事だからな。……後悔など無駄なことだ。俺はお前を痛めつけることに、微塵の後悔もしないと誓おう。安心して身を任せてくれれば良い。俺はいままでの人生で、一度たりとも後悔をしたことがないからな。」

 視界の端で、紅い光が瞬いた。何かの清い結晶を斜めに透かして見た時に似た、人を魅了してやまない不思議な輝き。男が吐き捨てた煙草がロクサーヌの頬をかすめていき、苦い煙が束の間ドラム缶の中に放たれる。

「あ……アタシは……だけどアタシには死ぬ理由なんか……。」

 既に水位はロクサーヌの額を超えている。耳元に響く轟音は益々大きく、命の終わりを警告している。

「ロクサーヌ。この世はお前が愛する可愛らしいケーキと同じなんだ。口にしてしまえばただのケーキ。胃の中におさまってしまえば単なる油と砂糖の混合物。どうしたって結果は同じで、時間が経てば排泄物に帰結する。だがナイフを入れた断面を見てみろ。ン?その層ははっきりと分かれている。フィリングはフィリング。フルーツはフルーツ。スポンジはスポンジだ。分かるかロクサーヌ。万物みな、与えられた立場や階層を超えることは難しい。今日、お前は死ぬ。だが残念ながら、お前個人の死に意味はない。この取引でブローカーが始末されたという、その事実にのみ意味があるんだ。階層なのだよ、ロクサーヌ。階層を、立場を、世界の構図を理解しなくては。お前は束の間、自分の小さな世界を支配していたつもりなのだろう。だがこの世には、もっと悪い奴らがごまんといるのさ。」

 水がロクサーヌの視界を奪う。身体を起こそうと試みても、既に体力は尽きていた。ロクサーヌは恐怖と寒さとに震えながら、遂に自分の絶望的な状況を受け入れた。巨大で絶対的な悪のなかに存在する、とあるひとつの階層の片隅で、自分はあっさりと始末されようとしている。きっとこの男は、何度もこんな風に人を殺しているのだろう。対価を得て、利益の為に容赦なく他人を始末する。歪んだ天秤に均衡を齎す死神。ロクサーヌは最後の力を振り絞って大きく叫ぶ。

「クソッタレ!地獄に堕ちろッ!アンタだって同じ穴の狢じゃあないの!」

「お先にどうぞ。俺はレディファーストを心がけているからな。」

男は呟くように歌い出す。ロクサーヌの誕生を祝う優しい歌声。

「沢山の幸福をお前に。沢山の祝福をお前に。おめでとう、ロクサーヌ。お前はもうすぐ自由になれる。」

 いよいよ水はロクサーヌの耳に入り込む。跳ね上がる心臓。水を嫌って暴れるロクサーヌを宥めるように、男の掌が縛られた脚を優しく叩く。ゆったりと歌いながら、あやすようにロクサーヌの脚で拍子を取る。やがて工業用水はロクサーヌの呼吸を根こそぎ奪う。肺に水が入り込み、むせかえって呼吸ができない。冷たい水の中にあっては男の歌声も、もはやロクサーヌには届かない……。

「お前にしては饒舌だったな?」

「ああ、少し私情が挟まったかもしれん……。」

「それは女の容姿に?それとも立場に?もしかして、生まれた月に?」

「……教えねえ。」

「ハン!」

 プロシュートは鼻で笑ってから煙草を咥え、作業台に放られていたカルティエのライターを軽快に鳴らす。ホテルのバーに入る為に上質なジャケットを着ているリゾットの背中を眺めながら、その彼が語った階層について思いを巡らす。

(なあリゾット。お前は、俺たちは、その階層をいつかブチ破ってやるんだろう。支配者どもにはウンザリだ。俺たちには俺たちの為の栄光が必要なんだ。なあリゾット、お前以上の悪魔【ディアボロ】はいない。だから俺は、お前に命を預けてついて行くんだぜ……。)

Tanti auguri a te!沢山の祝福を貴女に!