眠れぬ夜は【ホルイル】
街は生き物とは良く言うが、それは街を動かす人がいてこその比喩であり、鏡の中に映し出された虚構の街は、その意味でいかにも死体なのだった。音も匂いもない街は、ガイドブックに掲載された写真のようだ。喧騒とゴミの腐臭を取り払った街は、なるほどたしかに美しい。しかしこれはネアポリスを模した精緻な幻想で、イルーゾォが支配する死の国なのだ。
ホルマジオはイルーゾォに誘われて、鏡の中を歩いていた。そもそも今日のホルマジオはオフであり、チームの面子と会う予定も無かったのだ。しかし眠る前にシャワーでも浴びようと浴室のドアを開けたところ、鏡から半身を出しているイルーゾォを見つけ、思わずスタンドを出しかけたのだった。
「ビックリさせんな!シニョリーナがいたら気絶しちまうぜ。」
「ケッ、確かめて入ったさ。それにこの家にくる女は総じて猫だろ。それよりちょっと付き合えよ。どうせ暇だろ?」
「しょ〜がねえなァ〜ッ。」
現在の時刻は午前0時。夜の底へ沈んだ街に、二人分の足音だけが響いている。馴染みのタバッキの前を通っても嗄れた主人の声は聞こえてこないし、ピッツェリアの前を通っても、嗅ぎ慣れた小麦の匂いはしてこない。
「お前も大概、可愛らしい能力だよな。なんだよ、鏡の中ってよ。」
ホルマジオは煙草をふかしながら軽口を叩く。
「テメエにだけは言われたくないね。伸びたり縮んだり、不思議の国のアリスかっての。」
ーこのまま小さくなっていったら、最後は蝋燭みたいにすっかり無くなってしまうんじゃあない?ー
児童文学を読み聞かせてくれる大人にも、本棚に文学全集のある家庭にも縁のなかった二人である。だが今のホルマジオは読書家だった。まともに学校を出ておらず、攻撃力が高いとは言えないスタンド能力の持ち主であるならば、自分で自分の頭を鍛える他に生き残る手段は無い。
「あれは片頭痛持ちの数学者がラリって書いた話だからな。案外お子様向けって訳でもねえのさ。」
「御誂え向きってか?さすがにくだらねえ能力だぜ。」
「仕事前でナーバスなのは分かるが、あまり突っかかるなよ。」
「……。」
(図星だろ?)
ホルマジオは煙草のフィルターを噛みながら仲間の横顔を覗き見る。イルーゾォの傲慢で高飛車な態度は、本人の繊細さの裏返しだ。イルーゾォは時折こうしてホルマジオを散歩に付き合わせたが、それは大抵骨の折れそうな仕事の前である。イルーゾォの散歩には意味があることを、ホルマジオは口にせずとも知っていた。
イルーゾォの能力を簡潔に述べるなら、鏡の中に現実を精緻に写した世界を作り出すことである。この能力の使い方は大きく二種類に分けることが出来る。スタンド能力を持たない相手がターゲットの場合、危険を冒さず最短ルートで対象へ接近するという使い方。スタンド能力を持つ相手がターゲットの場合、スタンドと本体を切り離し、本体を無防備にさせるという使い方。
ターゲットが能力者の場合、当人には自分のいる世界が鏡の中であるという事実を、限界まで悟られない事が肝要だ。気がつかぬ内に鏡の中に引きずり込まれ、無防備状態にさらされ、スタンド能力を封じられたと知った次の瞬間には死んでいるという状態が、何よりイルーゾォにとっては望ましい。その為に、鏡の世界に狂いは許されないのである。
スタンド能力の発揮には、当人の精神状態が影響を及ぼす。一定の水準を保って常に実力を奮うためには、安定した精神が欠かせない。裏を返せば、スタンド能力がフルに発揮されていない場合は、当人が精神的に不安定な状態にあると言うことだ。
だからこそイルーゾォはスタンド能力者を殺す前、自分の世界を隅々まで点検するのだった。本来鏡に映る世界は現実の転写であり、光が物理法則に従い反射している限り狂う事などあり得ない。だが鏡の中に能力で作り出した世界は、イルーゾォの精神状態によっては多少の揺らぎが発生する可能性を孕んでいる。
ここまで精緻に世界を再現できるようになるまで、イルーゾォも鍛錬を重ねたのだ。イルーゾォはホルマジオを第三の目として使い、重たい仕事に備えて自分の能力と精神状態を神経質に点検している。ただその意図を、ホルマジオに素直に伝えていないだけなのだ。
二人がアジトのある地域に差し掛かったあたりで、聴き慣れた怒号が聞こえてくる。沸点の低いギアッチョと、それに呼応するプロシュートの声だろう。ホルマジオはその応酬を耳にして、思わず口角を引き上げてしまう。二人の声が聞こえるということは、すでにイルーゾォは二人の声が鏡の中に入る事を許可しているということだ。
どんなに長く鏡の世界に閉じこもっていようと、いつだってイルーゾォには仲間の声が届いている。それが危機を知らせる声でも、生活の中のありふれた会話であっても、互いに生きている限り、仲間の声は常に鏡の中へ届いている。
「しょうがねえなァ〜。テメエも手伝えよ。」
ホルマジオはアジトに足を向けた。ギアッチョとプロシュートは、チームで一二を争う暴君だ。フラット中が破壊される前に仲裁してやらねば、後始末に苦労するに違いない。いつものことだ。キッチンに立てかけた小さな鏡からそっと近づき、ちょいと二人に傷をつけてやれば良い。
「ハァ〜?何で俺が。」
そう文句を言いながらも、イルーゾォはホルマジオに付いてくる。ホルマジオは背中に仲間の気配を感じながら、鏡の世界のドアを開けた。
ーアリスはハラハラしながらノックもせずに中へ入ると、二階へ駆け上がっていきました。ー