銀世界の天河で感じるご縁
今年もあっという間に1月が終わり、立春を過ぎて暦の上では春ですね。
昨日参拝した天河大弁財天社は雪に覆われ、比較的暖かかった節分祭とは違って、厳しい寒さでした。冷たい風に身が引き締まりましたが、風がやみ、日が差すと、ほんわかと暖かく感じられ、一日のうちに何度も自然の厳しさを思い知らされ、改めて太陽に感謝する気持ちが芽生えました。
今年も天河神社には、1月に2回、2月に入って既に2回参拝し、合わせて参拝する丹生川上神社下社とともに深いご縁を感じています。
頻繁に参拝していると、神様の「かわいがり」というのか、少し手荒な「氣付き」が起こります。小さなことでいえば、先日の節分祭では拝殿での神事のときに、隣に小さな男の子を連れたお母さんが座っていたのですが、男の子が退屈なので、拝殿の砂利を拾って、撒いて、というのを何度も繰り返し、それが私の足に当たって、地味に鬱陶しい。お母さんは、私に謝るものの子供には注意しない。しばらく我慢していたのですが、注意する意味で男の子を少しにらみつけたら、私に向かって口で「ブゥー」と音を立てて抗議のブーイングをしてきます。さすがに注意するのかと母親を見ると、どうもスミマセンな感じでペコっと頭を下げるだけ。本殿の御扉が開いた神事の最中に起こったことなので、神様は何を言いたいのだろうかと考えさせられました。
採燈護摩が終わり、改めて拝殿に参拝し、天河神社周辺のお社を巡ったのですが、行く先々にその母子がいるのです。これは、神事のときの出来事も含めて、偶然ではなく、氣付くためのメッセージだなあと思いました。
実は、この出来事に通じることが1月にあって、バッサリと縁を切ったのですが、その対応の仕方を神様は伝えたかったのだろうと思っています。
私たちは、各々自分が正しいと思って行動し、誠意を尽くしたと考えているので、多くの場合、悪意はありません。しかし、それぞれが正しいと思うことが必ずしも一致しないので、納得できないと感じ、ときには争いになります。人間関係でもめるのは、ほとんどがこのパターンです。常識的に考えて、自分の方が絶対に正しいと思っても、そもそも常識と考えていることが、それぞれ違うのだから、正しいと思うことも違って当たり前なのです。誠意を尽くした言動が、相手には悪意に見えるということはよくあり、その言動の理由をちゃんと聞けば、勘違いして悪意に感じていたという経験は誰にでもあるでしょう。
私の場合、自分が正しいと思うことを主張しても、相手には伝わらないだろうし、争いになるのは嫌だと考えて、あえて何も言わず我慢するか、その相手とは関わらないようにします。今回のように相手が子供なら、なおさらです。しかし、相手に氣付きを与える意味でも、伝えるべきことは伝えた方が良いのかもしれませんね。
いつもありがとうございます。
見えない世界を伝える神社ナビゲーター
市口 哲也