魔法使いの弟
「ルイス、僕は魔法が使えるんだよ」
そう言ってにっこりと笑う兄を見て、ルイスは本当にこの世界に魔法があるのだと胸を高鳴らせてあっさり信じてしまった。
ルイスが持つ赤い瞳には他の人間には見えないものが見えている。
指に結ばれた赤い糸。
どこに繋がっているのか分からないときもあれば誰かと繋がっているときもあり、そもそも糸が結ばれていない人もいる。
あったりなかったり曖昧なそれが視界に広がることは、ルイスにとって昔から当たり前の光景だった。
まるでルイスの赤を煮詰め溶かして編んだような深い色をした赤い糸。
それが一体何の意味を持っているのか、今までのルイスは大して興味がなかった。
何故なら兄であるウィリアムの指にはその赤い糸が結ばれていないからだ。
自分の指には結ばれた糸があるけれど、その先がどこにあるのかはよく分からない。
触れることは出来るようだが意識しなければ邪魔になるものではなく、きっとこれは本当ならば目に見えないはずのものなのだと、幼心にそう気がついた。
ウィリアムに関係しなくて、他の人間には見えていなくて、生活するのに支障があるわけでもない。
ならば気にするまでもないかと、ルイスは視界にあふれるたくさんの赤を意識の外に追いやって今まで生活してきたのだ。
「おはよう、ルイス。昨夜はよく眠れたかい?」
「おはようございます、アルバート兄様。おかげさまでよく眠れました」
「それは良かった」
新しく移り住んだ先のモリアーティ邸での生活も慣れ、新しく兄になってくれたアルバートのことをルイスがようやく「兄様」と呼ぶことが出来た頃。
今まで自分の指に結ばれていた赤い糸が短くなり、その先がどこにあるのかが段々と見えてきた。
くい、と指を引いて跡を追いかけるまでもなく、少し周りを探ればその先端はアルバートの指に結ばれていると分かる。
初めて会ったときよりもずっと穏やかな表情をしているその顔を見て、ルイスは知らずと頬が緩んでいた。
ウィリアム以外に自分のことをちゃんと見てくれて優しくしてくれるアルバートのことを、ルイスはとても好いている。
「ルイス、勉強は順調に進んでいるかい?」
「いつも屋敷を綺麗に保ってくれて助かっているよ、ルイス」
「おや、庭を掃除してきてくれたのかい?髪に葉が付いているよ」
ルイスが知っている大多数の貴族とは違い、アルバートはルイスとウィリアムのことを決して偏見の目で見ることはなかった。
目的のために同志となったけれど、単なる家族ごっこではなく本物の家族として関係を作ろうとしてくれているのが分かるのだ。
内向的なルイスに合わせてゆっくりと時間をかけ、焦ることなく距離を詰めてくれるその様子はアルバートの誠実さを表しているようだった。
そっと頭を撫でてくれる大きな手はウィリアムとは違う安心感をルイスに与えてくれる。
こんなにも尽くしてくれるような価値が自分にあるのだろうかと疑問に思うこともあった。
だが簡単に実母を手にかけていたと思っていたアルバートも、実は家族というものに飢えているのかもしれないと、ルイスはそう結論付けてアルバートからの言葉掛けを受け取っていた。
貧民街の孤児でもその他大勢の人間でもなく、一人の個人として見てくれることがどれだけルイスの心を救ってくれたか分からない。
今までルイスのことをルイスとして見てくれたのはウィリアムしかいなかったのだから。
そのウィリアムに対し忠誠を誓ったアルバートは、必要に駆られたからルイスのことを弟として迎えたのではない。
ルイスがルイスだからこそ認めてくれているのだと、ルイスはそう感じている。
それに気付いたときから、自分を信じてくれているアルバートに恥じない存在でありたいと、ルイスは懸命に日々を過ごしていた。
「どうかしたのかい?ルイス」
「いえ…何でもありません、アルバート兄様」
「そう…それなら良いんだ」
自分の指をじっと見つめていたルイスを慮ってアルバートが声をかける。
何か付いていただろうかと手を返してみるが何もおかしなものは付いていない。
けれども変わらずルイスの瞳はアルバートの指に向かっているのだ。
一体どうしたのかと問いかけてみても返事はなく、幼い顔に疑問符を乗せたような顔にも納得いくものはないけれど、可愛らしいその顔に絆されてしまってそれ以上言及することも出来なかった。
そんなアルバートに気付くこともなく、ルイスは背を向けて歩いていく彼の姿が見えなくなるまでその場で見送っていた。
「…僕の糸と兄様の糸、どうして繋がっているのでしょう」
左手を上げ小指の先に結ばれている赤い糸を見下ろして、ルイスはぽつり呟いた。
その先に目をやれば、小さくなった後ろ姿のアルバートが持つ長く節張った指と繋がっている。
嫌な気持ちはしないけれど、今まで長く長く弛んで先が見えなかったはずの己の糸が、何故急に短くなってその行く先が分かってしまったのだろうか。
アルバートが離れていっても引っ張られることのない不思議な赤い糸を見つめ、ルイスは誰もいない部屋の中で一人首を傾げていた。
「赤い糸?繕い物でもあるのかい?」
「いえ、そうではなくて…」
分からないことがあればウィリアムに聞く。
それがルイスにとっての当たり前で、今までは疑問に思っていなかった赤い糸についてようやくウィリアムに訊ねることにした。
恐らくは自分以外に見えていない赤い糸について信じてもらえるだろうか、という不安はない。
ルイスがウィリアムを疑うことがないように、ウィリアムがルイスを疑うこともないのだ。
それを教えられるでもなく本能的に察しているからこそ、ルイスは今までずっと見えていた赤い糸について、恐れることなく淡々とウィリアムに説明していった。
血の繋がりを感じさせる理路整然とした説明は、相手がウィリアムでなくても簡単に理解出来たことだろう。
「へぇ、面白い話だ。…ねぇルイス、東の国に伝わる赤い糸の伝説は知っているかな?」
「いえ知りません」
「その国ではね、運命の相手同士の足首は赤い糸で繋がっているという伝説があるんだよ」
「運命の相手?」
「うん。必ず結ばれる恋人同士ということだろうね」
「なるほど。面白い伝説があるんですね」
「僕が思うに、ルイスが見ている赤い糸も同じものなんじゃないかな」
「えっ?」
ウィリアムはルイスの話を疑うことなく信じてあげると、己の知識に照らし合わせて今最も信頼できるだろう答えを教えてあげた。
大きな大陸に古来から伝わっている運命の赤い糸の伝説。
糸が結ばれている場所に足と指の違いはあれど、きっと同じものなのだろう。
己の目には見えないけれど、ウィリアムは赤い糸が結ばれているというルイスの左手を取り、白く細い指先を温めるように包んであげた。
「きっとルイスの運命の相手はアルバート兄さんなんだろうね」
ウィリアムの言葉を聞いて、驚いたようにルイスは目を見開いた。
大きな瞳がこぼれ落ちてしまいそうなほど見開かれた目は、それだけルイスにとっての衝撃の大きさを物語っている。
こんなにも驚いた表情を見るのは初めてかもしれないなと、ウィリアムは新鮮な気持ちでルイスへと微笑みかけた。
「ルイス、そんなに目を見開くと瞳が落ちてしまうよ」
「に、兄さん…僕の運命の相手が、あ…アルバート兄様って、どういう…」
「ふふ。どうだろうね。正しいことは僕にも分からないからなぁ」
でもアルバート兄さんのこと、嫌いじゃないだろう?
ウィリアムがルイスにそう問い掛ければ、赤い瞳と同じくらいにその頬が真っ赤に染まって視線を逸らしてしまう。
アルバートのことは好いている。
初めてウィリアム以外に自分をルイスとして見てくれて、貴族なのに優しくしてくれて、心地よく距離を詰めてくれるアルバートのことを、ルイスはとても愛しく想っている。
でもルイスにとっての一番は他の誰でもないウィリアムだ。
ウィリアム以外に初めて好いたのがアルバートではあるけれど、それでも一番大切で愛おしいと思うのはウィリアムなのだ。
自分の運命の相手はウィリアムではないのだろうかとそう感じてしまった瞬間、ルイスの頬はすぐさま元通りに真っ白く色をなくしていた。
「に、兄さんは…」
「僕かい?…ルイス、僕の指にも赤い糸は結ばれているのかな?」
「いえ…今も昔も、兄さんの指には何も結ばれていません」
「そう。だとしたら、僕に運命の相手はいないんだろうね」
「え?」
「僕にはルイスがいるから、運命の相手は必要ないんだと思うよ」
「で、でも…」
あっさりとそう言葉を出す兄を見て、ルイスは尚も戸惑ったように口を動かす。
けれども上手く言葉が出てこなくて結局そのまま唇を噤んでしまった。
自分がいるから運命の相手が必要ないとはどういう意味なのだろうか。
ウィリアムでない別の人間を運命付けられている自分にも納得がいかないし、その相手がアルバートであることには嬉しさよりも困惑の方が先立ってしまう。
すきか嫌いかで問われれば、ルイスは間違いなくアルバートのことがすきだ。
だが運命の相手だと言われてもいまいちピンとこない。
ルイスの一番はウィリアムなのに、真実はそうではないのだと言われているようで気に障るのだ。
「僕はルイスの相手がアルバート兄さんで嬉しいよ」
「…え?」
「彼なら安心して君を任せられる。もちろん、僕もルイスの隣にいることが前提だけどね」
「ウィリアム兄さん…?」
「僕はルイスの恋人にはなれない。君が生まれてから今までずっと兄弟だったんだから、これから先もルイスとは兄弟のままだ。だけどルイス、君が恋をするのであれば、その相手はアルバート兄さんが適役だと思うよ」
「…そう、なんでしょうか」
「ふふ。そんな顔をしなくても、ルイスの一番が僕なことくらい分かっているよ。僕にとってもルイスが一番大事なんだから」
まるで幼子に言い聞かせるような穏やかな声と優しく頭を撫でるその手に、ルイスは簡単に絆されてしまった。
自分が一番愛しく想っているのはウィリアムだと、それが伝わっているのならば文句はない。
硬くしていた表情を少しだけ緩めた弟を微笑ましげに見やり、ウィリアムは小さな頭を抱き寄せて囁くように言葉を届ける。
「ルイスはきっと、たくさん愛されるために僕とアルバート兄さんの弟になったんだろうね」
「…?」
「僕は兄としてルイスを大事にしている。そしてアルバート兄さんには恋人として君を大事にしてもらうため、赤い糸がルイスと兄さんを繋いでいるんじゃないかな」
「…恋人」
「そう。アルバート兄さんのこと、すきだろう?」
先程とは違い、はっきりと好意を滲ませた問いかけにルイスの頬はまたも鮮やかに染まっていく。
恥ずかしそうに視線を俯かせるルイスをさも愛おしげにウィリアムは抱きしめ、何度も何度もその頬に唇を落とす。
滑らかな頬の感触を堪能してから形の良い唇を吸い、柔らかいそれを覆うように深く唇同士を重ね合わせて互いの息遣いを感じていく。
そうして漏れ出た吐息を追うことなく逃し、甘く響く声は聞き逃さないように耳を澄ませた。
「僕はルイスがアルバート兄さんに愛されている姿を見てみたいな」
「…兄さん」
ウィリアムが望んでくれるならルイスにとってそれが一番嬉しいことだ。
気兼ねなくアルバートを愛しく想っていて良いのだと許されたような気がして、靄掛かっていた気持ちが晴れた。
新しく芽生えた気持ちを分け与えるようにウィリアムの背中を抱きしめて、指に結ばれ浮いている赤い糸を見る。
この糸の先にはアルバートがいる。
聡明で優しくて気高い彼が運命の相手だなんて恐れ多いけれど、ウィリアムに認められた今となっては素直に嬉しいと感じられるのだから不思議だ。
何をするつもりもないけれど、これからもアルバートのことを大切に想っていきたいとルイスは思った。
そう、思ったのがつい先日のことだ。
今日も変わらずアルバートは穏やかにルイスを気遣ってくれて、大きな手で髪を撫でて労ってくれた。
慈しんでくれるその仕草に今までは胸が温かくなるような嬉しさを感じていたのに、ウィリアムから赤い糸の伝説について聞いてしまってからはどこか心が落ち着かない。
アルバートのことがどうしてだかいつも以上に魅力的に見えてしまうのだ。
「ルイス?どうかしたのかい?」
「い、いえ…」
まだ成長途中でありながら、既に周囲の貴族からは歴代でも類を見ないほど美しい伯爵だと噂されているその美貌。
そんな彼が自分のことを気にかけて優しくしてくれるという事実は誇らしいほどに嬉しいものだった。
けれどアルバートが運命の相手なのだと思えば思うほど特別に見えてしまって、今までに感じたことのない気持ちがルイスを襲う。
言語化するならば珍しくもないただの恋心なのだろうが、過去にルイスが経験した感情の中では縁のなかったものである。
ゆえにルイスはどうしてアルバートを前にしたときに自分の心臓が高鳴るのか、頬が瞬時に熱くなるか、その姿が眩しく見えるのか、向かい合うと思わず顔を隠してしまいたくなるのかが分からなかった。
髪を撫でられたのを良いことに顔を俯かせていると、普段と違っていつまで経っても顔をあげようとしないルイスに思うところがあったのか、アルバートはその頬に手をやって自然な動作で顔を上げさせる。
拒否なく顔を上げてくれたことに安堵してその表情を間近で見れば、真っ赤な頬と熱っぽく潤んだ瞳が視界に入った。
今までに見たことのない、随分と愛らしい表情だ。
「…ルイス?」
「に、兄様!僕、窓拭きが終わっていないので失礼します!」
「…あぁ。頑張っておいで」
顔を上げた先にあった綺麗な顔と気持ちが安らぐような翡翠色の瞳を見て、ルイスは耐えきれずに目を閉じて叫ぶようにしてその場を後にしてしまった。
こんなにも気高く美しい人が、自分の恋人になるなんて有り得ない。
恋人とはウィリアムとするようなキスをするということなのだ。
アルバートとキスをする自分などとても想像が出来ないし、そもそもアルバートが自分のことをそんな目で見ているとは思えない。
きっと運命など何かの間違いなのだと、ルイスは指に結ばれた赤い糸を掴んでそのまま適当な空き部屋へと入っていった。
「…何かあったのかな」
その場に残されたアルバートはルイスが自分に見せた表情に悪い気持ちを抱かなかった。
少し前ならばあんなにもあからさまな逃げはアルバートの心を傷付けたのかもしれないが、今の表情は間違いなく嫌悪ではなく好意からくるものだろう。
照れているような可愛い弟の様子はむしろ何かを予感させるほど気分が向上する。
悪い方向にはいかないだろうと、揺らした金髪を思い浮かべてアルバートも部屋を後にした。
「…糸…」
ルイスが空き部屋に籠もって胸の動悸を落ち着けていると、薄暗い中でもはっきりと見える赤い糸が視界を泳ぐ。
運命の相手とは一体なんなのだろうか。
ウィリアムでないことを悲しく思ったけれど、アルバートならば嬉しいと思ったのに、こんなままならない気持ちになるとは想像していなかった。
せっかく髪を撫でてもらったのに失礼な態度を取ってしまって、怒らせていないだろうか。
嫌われてしまったらどうしよう、とルイスは落ち込みながら赤い糸を睨みつける。
いっそのことこんな糸、見えなければ良かったのに。
ムっと頬を膨らませたルイスは思うままに繋がれている赤い糸を引いて両手に持つ。
そうして気紛れに力を入れて左右に引っ張ると、糸は簡単に切れてしまった。
「…え」
千切れた糸は繋がることなく、たらりと指の先から垂れていく。
もう片方は部屋の外から出ているけれど、一本だったはずの糸はしっかり二本に分かれてしまった。
「え、えっ!?」
今まで意識しなければ触れることも出来ない糸を千切ってしまったのは初めてのことだ。
触ろうと思えば触れることを知ってはいたが、まさか切れるなんて知らなかった。
ただ手持ち無沙汰にいじっていただけなのに、こんなにも簡単に切れてしまうものだったなんて驚きだ。
切れてしまった場合、運命の相手とはどうなるというのだろうか。
やっと火照りが治まってきた頬なのに、今度は己の失態で白く温度をなくしてしまう。
アルバートとは運命が切れてしまったのかもしれない。
それは嫌だと、すぐウィリアムに相談にいこうとルイスは扉を開けて外に出ようとしたけれど、ふと頭に一つの可能性がよぎった。
このまま糸が切れていた方が都合が良いのではないだろうか。
きっとアルバートとルイスが運命の相手だなんて何かの間違いだ。
さっきみたいに上手く自分の感情を制御できないままアルバートと接するくらいなら、運命など知らなかった頃の自分を思い出して関わった方がよほど良い。
その方がアルバートにも失礼な態度を取ることなく過ごすことが出来るだろう。
「…このままで、良いかな」
ルイスは己の左手を見て、何にも繋がれていない赤い糸が垂れている様子を目に収める。
運命などなかったのだと、そう自分に言い聞かせてルイスは部屋の扉を開けた。
そして糸が切れてしばらくした頃。
ルイスの表情は変わらず晴れることはなかった。
何故なら糸を切ってしまってからのアルバートはどこか余所余所しいような、距離を置かれているような気がしてならないからだ。
運命などなかったことにして普段通りアルバートと過ごそうと決めたのに、ルイスの努力も意味をなさないまま距離を置かれている。
そう感じているのはルイスだけなのだが、多分気のせいではないとルイスは確信していた。
「やぁ、おはよう」
「おはようございます、アルバート兄様」
「早速で悪いけど、後で部屋に紅茶を持ってきてもらえるかい?」
「分かりました。軽食もお付けしましょうか?」
「いや、紅茶だけで構わない。頼んだよ」
いつもは一緒に朝食を摂っているのに、最近のアルバートは忙しいのか部屋でお茶を飲むだけになっている。
夜はともに食事をするけれど、顔を見ることすらめっきり減ってしまっていた。
以前なら優しく髪を撫でてくれていたのにそれもない。
以前ならちゃんと顔を見て名前を呼んでくれたのに、今は名前どころか視線を合わせることもしてくれないのだ。
気のせいだと思うには以前のアルバートの記憶が強く残りすぎていて、だからこそより違和感を感じてしまう今の状態がルイスには寂しくて仕方がなかった。
「…アルバート兄様」
これは糸を切ってしまった弊害なのだろうか。
赤い糸で繋がれた運命の相手だから、アルバートはルイスに優しくしてくれていたのかもしれない。
糸が切れてしまったから以前よりも距離を感じて寂しく思うのかもしれない。
そんなことはないと思いたいのに、突然アルバートの態度が変わってしまった理由が他に思い当たらなくて、ルイスは一人リビングで佇んでいた。
「ルイス?どうしたんだい、そんなところで。食事の用意は出来ているんだろう?」
「ウィリアム兄さん…」
「どうしたの?」
今日も徹夜をしていたのだろうウィリアムが、ルイスの声かけもなしに自らリビングへとやってきた。
だが今のルイスに徹夜を咎めるほどの余裕があるわけもなく、ウィリアムの元へ駆け寄っては慣れ親しんだ腕の中に飛び込んでいく。
「兄さん…う〜…」
「ルイス?何があったのか話してくれるかい?」
「に、兄様が…」
悲しげに瞳を潤ませて抱きついてきた弟の背を優しく撫で、ウィリアムは小さな体を抱きしめて話を促す。
悲しんでいるというよりも寂しがっているルイスにたくさんの気持ちを届けるため、ウィリアムは惜しむことなく力を込めて抱きしめた。
その腕に安心したルイスは己の左手に目をやり、変わらずどこにも繋がれずに垂れている赤い糸を見た。
やっぱり自分はもうアルバートと繋がっていないのだと思い知らされるようで、ますます寂しくなってウィリアムに抱きつく力が強くなる。
ルイスは隙間なくウィリアムに抱きついたまま、ポツポツと自分の感情を吐き出していった。
ウィリアムは時系列もばらばらで分かりづらいであろうルイスの訴えを気にせず優しく聞いていく。
「…アルバート兄様は、もう僕に優しくしてくれないのでしょうか」
「どうかな…兄さんは今忙しいみたいだから、偶然が重なっただけだと思うけど…」
「…でも、もう全然撫でてくれません…僕の名前も呼んでくれません」
あんなにたくさん呼んでくれた名前を、今は全然聞いていないのだ。
また名前を呼んでほしいと思うのに、糸を切ってしまった影響なのかと思うとどうすればいいのかわからない。
ウィリアムには見えていないけれど、ルイスの目にははっきりとどこにも繋がれずただ指に結ばれただけの赤い糸が見えるのだ。
浅はかな自分のせいでアルバートとの繋がりを断ち切ってしまったのだと思うと己の愚かさに涙が出てくる。
ルイスは大きな瞳を潤ませてウィリアムを見上げ、たった一人自分の味方である彼へと縋るように目をやった。
彼ならきっと自分を助けてくれると無条件に信頼しているのだ。
「…ふふ」
「兄さん?」
「ねぇルイス。僕は魔法が使えるんだよ」
「ま、ほう?」
「あぁ」
だから泣かないで、とウィリアムはルイスの目尻に指をやって溢れる滴を拭い取る。
たどたどしく話を紡ぐルイスは年相応に可愛らしくて、その理由もとても彼らしく純粋なものだった。
運命の相手云々を除いて、ただアルバートに名前を呼んでほしいのだと、無邪気にそう願う弟の希望を叶えられなければ兄ではないだろう。
ルイスの赤い瞳を溶かしたような深く美しい赤い糸。
それが結ばれているという左手を握り、ウィリアムはルイスを連れてアルバートがいるであろう彼の私室に向かっていった。
「アルバート兄さん、今よろしいですか?」
「ウィリアムかい?お入り」
ルイスを連れたウィリアムがアルバートの部屋に入り、彼の様子を見てみれば幾つかの本に囲まれてペンを走らせている姿が目に入る。
提出の課題でも近いのだろう、ウィリアムの姿を見てもペンを置かずに視線だけをそちらによこしていた。
「二人揃ってどうしたんだい?お茶を持ってきてくれたのかな」
「あ、あの…まだ紅茶の用意は出来ていなくて」
「おや、そうなのかい。まぁ急ぎではないし、後で頼んだよ」
「はい」
「アルバート兄さん、少し手をお借りしても良いですか?」
「手?」
アルバートの言葉を催促と捉えたのか、ルイスは申し訳なさそうに俯いてはウィリアムと繋いだ手に力を込めた。
やっぱり名前は呼んでもらえない。
ウィリアムは魔法と言っていたが一体何の魔法が使えるのだろうか。
手を引かれるまま足を進めると、ウィリアムがアルバートの手を取ろうと腕を伸ばしていた。
その指には垂れた赤い糸が結ばれている。
「ルイス、少し目を瞑っていてくれるかい?」
「え?は、はい」
アルバートの手を取ったウィリアムはルイスを振り返り、その赤い瞳が見えなくなったのを確認してからアルバートへと向き合った。
貴族でありながらも、人は正しく平等であるべきだと高い志を持つ人間。
ウィリアムが初めてルイス以外を信用した特別な存在こそがアルバートだ。
彼のことをウィリアムはとても信頼しているし、それこそ愛しい弟を任せても良いと思えるほどには大事に思っている。
そんな二人が妙な仲違いをするなど時間の無駄だ。
アルバートが多忙なのは間違いないし、彼がルイスと距離を置くなどありえないのだから恐らくはルイスの思い過ごしだが、赤い糸を切ってしまったのは確かにまずいだろう。
すっかり自信をなくして寂しがっている弟のためにも、運命の赤い糸にはちゃんと仕事をしてもらわなければならない。
ウィリアムはアルバートの指とルイスの指に手を添えて、千切れてしまった赤い糸を丁寧に結び直してあげた。
今度はうっかり千切れてしまうことのないように、とびきり念を込めて赤い糸へと触れていく。
「もう良いよ、ルイス」
「…何だったんですか?兄さん」
「僕は魔法が使えると言っただろう?ルイス、君の糸はどうなっているかな?」
「どうなっているって、別に…あれ?」
「…二人とも、何の話をしているんだい?」
魔法だの糸だの空想めいた会話をしている弟達を見てアルバートは怪訝そうに眉を顰める。
聡明な彼らのことだから悪いようにはならないはずだが、三人でいるというのに自分一人除け者というのも面白くなかった。
だがそんなアルバートに気付かないまま、ルイスは己の指に結ばれていた糸がまた長く伸びていることに驚いている。
そしてその先は目の前の彼、アルバートと繋がっているのだ。
ルイス自ら切ってしまった運命の赤い糸。
それはウィリアムの手により一本の糸に戻っていた。
「に、兄さん!糸が…!」
「これでルイスの心配事は解決するかな」
「は、はい…!ありがとうございます、兄さん」
「糸?ほつれでもあるのかい?」
「アルバート兄さん」
左手を掲げて喜ぶルイスを横目に、ウィリアムはにっこりと笑みを深めて兄を見る。
無邪気で可愛いルイスの運命の相手が彼ならば、きちんと彼にもルイスを守ってもらわなければ困るのだ。
「ルイスが寂しがっているので、早く課題を終わらせてあげてくださいね」
その言葉の意味が分からず、珍しくもぽかんとしたような表情でアルバートはウィリアムとルイスの顔を交互に見た。
ウィリアムはにこにこと笑みを浮かべていて、ルイスは「寂しがってないです」と否定しながらウィリアムの背に隠れている。
隠れているのにこちらを気にしている様子が何とも可愛らしく見えて、アルバートは吹き出すように笑ってしまった。
確かにここ数日は忙しくて食事すらろくに摂っていなかったし、ウィリアムともルイスとも十分に話す時間を持てていない。
背伸びして大人の振りをしてはいるけれど、まだまだ幼く甘え方を知らない末っ子はそれが寂しかったのだろう。
知ってしまえばますます愛しさが増してしまった。
アルバートはウィリアムに取られていた手を伸ばしてルイスの髪を撫で、優しく労わるように混ぜていく。
数日ぶりのその手付きにルイスの瞳はとても綺麗に輝いた。
「…兄様」
「ルイス、我慢させてすまなかったね。今日中には全て終わるから、明日は一緒にゆっくりしようか」
「お、お疲れ様、です…」
ようやくアルバートが自分の名前を呼んでくれた。
それに加えてまるで愛しいものでも見るような甘い甘いその表情は、思わず見惚れてしまうほどに美しい。
兄のその表情から視線を外せないままルイスは彼を見上げ、視界の隅に映る赤い糸にどくりと胸を高鳴らせるのだった。
(兄さん、いつから糸が見えていたんですか?)
(今も昔も見えていないよ)
(え?でも僕と兄様の糸、兄さんが直してくれたんじゃ…)
(見えなくても魔法は使えるんだよ、ルイス。君が糸のせいで自信をなくしていたんだから、その糸をどうにかするのは兄である僕の役目じゃないか)
(そういうものなんですか?)
(そういうものなんだよ、ルイス)