アメリカ人が作った翻訳語「権利」
自治体職員研修では、時間の関係上、端折って説明しているが、実は、英語rightを「権利」と翻訳したのはアメリカ人なのだ。
このアメリカ人の名前は、William Alexander Parsons Martinウィリアム・アレクサンダー・パーソンズ・マーティン(1827〜1916。漢語名は丁韙良。支那には仮名文字がないため、欧米人名を漢字で表記する。)という。プロテスタント長老派の宣教師として、清国で布教活動等をしていた。
「権利」という漢語自体は、古くから支那(chinaシナ。中国の地理的呼称。)で用いられている。例えば、『荀子』勧学篇第一には、「是故權利不能傾也」(是の故に權利も傾くること能わず。権力でも利益でも心は動かされないというような意味だ。)とある。
しかし、ウィリアム・マーティンが、アメリカの国際法学者であるHenry Wheatonヘンリー・ホィートン(1785〜1848。漢語名は恵頓。)の著書『Elements of International Law』(直訳すれば、国際法の要素。)を『万国公法』という書名で漢語に翻訳した際に、rightにこの「権利」という漢語を当てはめ転用したわけだ。この他にも、「主権」(sovereign rights)や「民主」(republic)も、ウィリアム・マーティンの翻訳語だ。
この翻訳本『万国公法』は、清国では反響が乏しかったらしいが、1864年又は1865年に清国で出版されるやいなや直ちに日本へ輸入され、我が国では空前の大ベストセラーとなった。我が国で法律書、況(いわん)や国際法の解説書がベストセラーになったのは、後にも先にも『万国公法』だけだろう。映画やテレビの時代劇にも坂本龍馬が「これからは万国公法ぜよ!」というセリフを言うシーンがよく登場するが、それぐらい衝撃的だったのだ。
この衝撃を物語るエピソードがある。東京大学の前身で海賊版が大量に印刷されていたのだ。「この書は翌慶応元年に東京大学の祖校なる開成所で翻刻出版せられたが、これまで鎖国独棲しておった我国民は、始めて各国の交通にも条規のあることを知ったのであるから、識者は争うてこの書を読むが如き有様であった。故にこの書は最も広く行われ、この書を註釈しまたは和訳した「和訳万国公法」「万国公法訳義」などの書も広く行われ、また開成所でも丁韙良の「万国公法」を翻刻したのであった。この翌年即ち慶応二年に、同校教授西周助(周)先生がヒツセリングの講義を訳して出版されたが、これも「万国公法」と題せられた。」(穂積陳重著『法窓夜話』五十二 国際法)。
ちなみに、「「国際法」なる名称の創定者は何人(なんぴと)であるかというと、それは実に箕作麟祥(みくりやりんしょう)博士である。」(穂積陳重著『法窓夜話』五十二 国際法)。現在、中国では International Lawは「国際法」と翻訳されている。戦前に孫文などの支那人留学生が、「国際法」、「哲学」、「文学」、「心理」、「物理」などの日本製の翻訳語を支那へ持ち帰ったからだ。
国立国会図書館デジタルコレクション 『恵頓萬國公法 完』(司法省蔵版、明治15年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2938155?tocOpened=1
日本人で最初にrightを「権利」と訳したのは、津田真道(つだまみち)先生だそうだ。オランダの憲法学者シモン・フィセリングの公法学の講義を口述筆記して、これを日本語に訳して『泰西国法論(たいせいこくほうろん)』(1866年)と題して出版した(泰西とは、西洋のこと。)。『万国公法』が日本で出版されたのと同時期だ。加藤弘之(かとうひろゆき)著『立憲政体略』(1868年)も「権利」を用いている。
ところが、このようにrightを「権利」と訳すことに異を唱えたのが福沢諭吉先生だ。福沢諭吉著『西洋事情 二編』(明治3年、1870年)にて、「「ライト」とは元来正直の義なり。」として、正義を通すという意味で「通義」と訳すべきだと主張しておられる。
加藤弘之先生は、『真政大意』(明治3年、1870年)では「権理」と訳しておられる。物事の道理に適っているという意味で福沢先生と同趣旨だと思われる。
福沢先生も『学問ノスゝメ』第三編(明治6年、1873年)で「凡そ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その権義において異なるなしとのことは、第二編に記せり。二編にある権理通義の四字を略して、ここには唯権義と記したり。何れも英語の『ライト』という字に当る」と述べておられる。つまり、rightを「権理」若しくは「通義」又は「権義」と訳しておられるわけだ。
このような反対論があったためだろうか、明治6年5月15日太政官布告第162号も、「権理」を用いている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953
福沢先生がrightを「権利」ではなく、「権理」若しくは「通義」又は「権義」と訳すべきだとおっしゃるのは、ごもっともだと思う。
なぜならば、英語rightはもちろんのこと、ドイツ語rechtレヒトも、フランス語droitドロワにも「正しい」という意味はあっても、利益の「利」という意味はないからだ。
英語rightの元々の意味は、「垂直に立てる」・「真っ直ぐにする」という動詞の過去分詞形であって、そこから転じて「適切な」・「正しい」という形容詞になった。イギリスへ渡ったゲルマン人(ノルマン人)は、神聖ローマ帝国(ドイツ)のゲルマン人とは異なり、イタリアで再発見されたローマ法を自分たちとは無関係な法とみなして積極的に受容しなかったため、rightはラテン語iusイウス「(正しいものとしての)法」の翻訳語に転用されることがなかった。そして、ノルマン征服王朝は、圧政を敷いた。中世末期に横暴な王様が一方的に課した掟(law)に対抗して、我々の正しさ(right)を守らねばならないということで、rightは、law「法」と対立する「権利」という名詞になったわけだ。
ドイツ語rechtも、「垂直に立てる」・「真っ直ぐに伸ばす」という動詞の過去分詞形で、そこから転じて「正しい」という形容詞になった。ここまでは英語rightと同じなのだが、神聖ローマ帝国は、再発見されたローマ法を我が祖国の法として積極的に受容し、rechtがラテン語ius「(正しいものとしての)法」の翻訳語として転用された。
フランス語droitは、「垂直方向に真っ直ぐ伸びた」・「一定方向に真っ直ぐ伸びた」という動詞の過去分詞形であって、そこから転じて「正しい」という形容詞になり、ラテン語ius「(正しいものとしての)法」に代わって用いられるようになった。
中世のドイツやフランスの王様には絶対的な権力がないので、法秩序を維持するためには貴族や僧侶に妥協して、貴族や僧侶に一定の権利を認めざるを得なかった。 そこで、rechtやdroitは、王様から見れば「(正しいものとしての)法」であり、貴族や僧侶から見れば「(正しいものとしての)権利」という2つの意味を持つ名詞になったわけだ。このように法と権利を同じ単語で表現するため、例えば、ドイツ語の場合には、法を表す際には「客観的(objektives)」という形容詞を、権利を表す際には「主観的(subjektives)」という形容詞を、それぞれrechtに付けて呼び分けている。この点がlaw法とright権利という2つの単語がある英語との大きな違いだ。※1
しかし、福沢先生の主張は世間に受け入れられず、「権利」という翻訳語が定着してしまった(福沢先生ご自身も、その後の著作で「権利」を使用するようになられた。)。
なぜ「権利」という翻訳語が定着してしまったのだろうか。
その理由は明らかではないが、①大ベストセラー『万国公法』により「権利」という翻訳語が広く知れ渡っていたからではなかろうか。
また、②権利とは何かという法哲学上の問題に関するイェーリングの学説の影響もあるかも知れない。
法哲学者の尾高朝雄(おたかともお)先生は、次のように述べて、イェーリングの学説を否定しておられる。「ドイツの法学者、例えばヴィンドシャイドは、權利をば「法秩序によって賦與された意志力または意志支配」(eine von der Rechtsordnung verliehene Willensmacht oder Willensherrschaft)と解した。また、イエリングは、權利を定義して、「法によつて保護された利益」(rechtlich geschützte Interessen)と見た。しかし、第一の意志説は、何故に意志作用の全く缺如する主體が權利を享有するか、を説明し得ない。また、第二の利益説は、そのいわゆる利益をば何人の評價によつて決定するかという問題において、避くべからざる難關に逢著する。すなわち、兩説はともに論理上の難點を有し、科學的に承認されるに値しない。」(尾高朝雄著『法哲学概論』(日本評論社、昭和24年)187頁)。確かに、尾高先生のご批判はごもっともだ。※2
しかし、例えば、世界的なベストセラーであるイェーリング著『権利のための闘争』(1872年)は、明治19年(1886年)に西周(にしあまね)先生が翻訳刊行なさっているし、明治27年に出版された宇都宮五郎訳『權利競争論』には、加藤弘之先生、大津事件に際し政治的干渉から司法権の独立を守って「護法の神様」と評されている児島惟謙(こじまこれかた)大審院院長、富井正章(とみいまさあき)先生、穂積陳重(ほずみのぶしげ)先生という4人の重鎮がそれぞれ序文を書いておられることから見て、当時の日本ではイェーリングの学説が広く認知され、支持者も少なくなかったものと思われる。
そうだとすれば、rightの語源には利益という意味はないが、法哲学上は「法によって保護された利益」という意味なのだから、翻訳語としては「権利」でよろしいと考えられたのかも知れない。
学生時代に消滅時効・取得時効を初めて勉強した際に、ヘンテコリンな制度だと思った。例えば、貸した金を返せと請求できる貸金債権を行使せずに法定期間を経過すると、その貸金債権が時効によって消滅するというのが消滅時効だ。また、自分の土地を不法占拠している者に対して出ていけと請求せずに法定期間を経過すると、不法占拠者がその土地所有権を時効によって取得するというのが取得時効だ。時効制度の趣旨は、「権利の上に眠れる者は保護に値しない」というのだが、権利を行使するかどうかは権利者の自由なはずなのに、どうして権利を行使しないと時効にかかるのかいまいちピンとこなかった。しかし、「法によって保護された利益」を守るために闘わなければならないという『権利のための闘争』(岩波文庫)を読んだところ、西洋人はこんな風に考えるから「権利の上に眠れる者は保護に値しない」ということになるのかと妙に納得した記憶がある。ひょっとしたら明治の人たちも同様だったのかも知れない。
以上のお話のほとんどを端折って、初心者向けの自治体職員研修の余談として、次のように述べている。
「はい、「権利」という言葉が出てきました。「権利」って何ですか?皆さんは、職務権限をもってらっしゃいますが、「権限」って何ですか?憲法第94条には「権能」という言葉が出てきますが、「権能」って何ですか?
法律学に限らず、似たような言葉が出てきた場合には、何がどう違うのかを考えると実力がアップしますよ。
実は、「権利」とは何かという問題は、法哲学という別の学問の研究対象なのです。哲学の問題ですから、学者によって言っていることがバラバラです。ここでは分かり易さを重視して、古い学説に従って、一応こんな風に定義しておきます。※3
「権利」というのは、自己の利益を守る法上の力を指します。例えば、皆さんが同期のご友人から1万円を貸して欲しいと頼まれたとします。「何でや?」と訊いてみたら、「うちの職場は最近飲み会が多くて、今月ピンチなんや。悪いけど、来月の給料日に必ず返すさかいに1万円貸して♪」と言うものですから、「しゃーないな〜。来月絶対返してや!」と言って、1万円を貸してあげました。ところが、返済期日が来ても、1万円を返してくれない場合には、誰憚ることなく、「1万円返せ!」と請求するパワーが認められているし、請求しても返してくれないときには、裁判所に「借金1万円を返してくれないんだ、助けてくれ!」という訴えを起こすパワーが認められています。これが「権利」です。
これに対して「権限」とは、逆パターンです。他人の利益を守る法上の力を指します。先ほど、「国や地方公共団体は、法律上人として扱われる法人ですよ♪」というお話をしましたね。そうです。ここにいう他人というのは、皆さんの場合は、お勤め先の地方公共団体を指すわけです。皆さんは、地方公共団体の利益を守るために、部署によっては、「税金を支払え!」、「水道料金を支払え!」と請求したり、「〜するな!」と取り締まりをしたりするわけです。それがひいては住民みんなのためになるわけです。つまり、職務権限というのは、皆さんのお仕事のことなんです。
そして、「権能」ですが、これは権利と権限の両方を含む意味で、法上の力自体を指します。
実は、いずれも英語の翻訳なんです。
まず「権利」は、ご存知のように英語rightの翻訳語です。「利」は利益の利です。「権」というのは、力を行使するという意味です。自分の利益を守るために法上の力を行使するので、「権利」というわけです。辞書のない時代に、ポイントを的確に掴んで翻訳していますね。このように明治の人たちは、正しく理解しているのですが、じゃあ納得していたのかと言えば、必ずしもそうとは言えません。というのは、rightには「正しい」・「正義」という意味があります。明治の人たちの倫理観からすると、世のため人のために力を行使するのは良いことだが、己の私利私欲のために力を行使することは悪いことだということになるので、己の私利私欲のために力を行使することが「正しい」ことなんだ、それが権利なのだと言われてもピンとこなかったのでしょう。そのため、rightの翻訳語として作られた「利権」という言葉は、かわいそうに今では悪い意味で用いられているわけです。
次に「権限」は、英語authorityの翻訳語です。authorityは、通常、「権威」と訳されています。皆さんは、行政のプロですから、権威者なのです。じゃ、なぜ「権威」と訳さずに「権限」という翻訳語が作られたのでしょうか。皆さんの職務権限は、あくまでもお勤め先の地方公共団体の利益を図るために行使しなければならないのであって、自分のために行使してはならないという限界があるから、「限」という字を当てたのでしょうね。戒めのためです。例えば、窓口にお越しになった住民が自分の好みのタイプだったとします。その住民の住所や電話番号を調べる職務権限があったとしても、それを自己のために、つまり、ストーカー目的で行使してはならないという限界があるわけです。
最後に「権能」は、英語powersの翻訳語です。権利と権限の両方を含む意味で、複数形になっています。立法権、行政権、司法権というのは、法上の力自体を指す「権能」なのです。「能」というのは、あたう、すなわち、できるという意味です。力を行使できるので、「権能」と訳したわけです。」
不正確でツッコミどころ満載なのは百も承知の上で、分かり易さを重視して、このように説明している。職員研修は自己研鑽のきっかけにすぎず、私の説明に疑問を抱けば(当然に抱くだろう。)、自ら調べて考えればよいわけで、考えるヒントを与えるのが講師の務めだと思って、このような説明をしている。
それにしても、昔の人は偉かった!よくぞ翻訳してくださった。張 厚泉氏の『西周の翻訳と啓蒙思想(その一) ――朱子学から徂徠学へ、百学連環に至るまで』を読むと、その凄まじさが分かる。西洋の言葉一つひとつの意味を正しく理解し、咀嚼して、適切な漢語を選択又は造語するのに、どれだけの時間と労力がかかったことだろうか。
http://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/067.html
先人たちの血の滲むような努力のお蔭で、我々現代人は国語で考え表現することができるのだ。なんとありがたいことだろうか。最近の国や自治体がよく用いるカタカナ用語を見るにつけ、先人の見識の高さに感服する。
我々現代人は、後世の人に何が残せるのだろうか。
※1 フランス語には、法を表すloiロワがあるではないかとお考えになられるかもしれない。確かに、英語lawローをフランス語に直訳すれば、loiなのだが、法令用語としては、フランス語loiは、個々の法律を表す英語actアクトに相当するものとして用いられている。英語lawに相当する法令用語は、フランス語ではdroitなのだ。
※ 2 この点、英米法学者で憲法学者でもある伊藤正己(いとうまさみ)先生は、「権利にはこの2つの面があるといってよい。権利は、主観的な法として、法秩序のなかに内在する力をもち、それは法秩序によって保護されるし、また、法秩序が人に与える利益を含んでいる。意思の力は権利の形式または手段であり、利益は権利の内容であるといってよい。物の売主の代金請求権は、売主の意思の力が保護される範囲であるが、同時に代金をうけとる利益である。もし買主が請求に応じないときは、国家権力による強制を加えることができるが、この保護は売主の意思の力と利益の両面に及んでいるのである。」と述べておられる(伊藤正己・加藤一郎編『現代法学入門[第3版]』(有斐閣、平成2年)27頁)。
※3 「権利の本質に関しては、古来学説が分かれているが、現在多くの学者は、法律によって保護された利益に関して認められる活動の範囲であると説く。権利は、法によって認められるものであるから、法以前の権利は理論上存在しない。基本的人権も天賦のものではなく、民主主義国家の憲法として認めなければならない基本的な権利というにすぎない。」(編集代表我妻栄『新版 新法律学辞典』(有斐閣、昭和42年)321頁)
「権利の本質については、学説上権利意思説・権利利益説・権利法力説等がある。今日は権利法力説が一般に支配的であって、権利とは、一定の利益の享受のための手段として、法から一定の資格を有する者に与える力であるといわれる。」(末川博編『全訂 法学辞典』(日本評論社、昭和53年)265頁)
「けんり【権利】一定の利益を請求し、主張し、享受することができる法律上正当に認められた力をいう。相手方に対して作為又は不作為を求めることができる権能であり、相手方はこれに対応する義務を負う。権利は法によって認められ、法によって制限される。」(LogoVista電子辞典『有斐閣 法律用語辞典第4版VERSION2.06』)