ニワカでもいいけれど、本当に好きならば。
最近、アートや映画や音楽や文学のリコメンドを出し合うコミュニケーションがあった。
老若男女、それぞれが凄い引き出しを開け、新たな発見や意外な共感があり、非常に面白い時間だった。文化系って良いなと素直に思った。
そこで改めて見直したのは、カルチャーを語るなら、何が大切かと言うことだ。
教養という言葉は扱いが難しいし、知識があるからエラいということもない。カルチャーに興味のない人達は別の充実を得ているわけで、カルチャーの素晴らしさを押売のように啓蒙することもない。新参者でもニワカでもいい、興味があれば入口に入っているし。
ただ、違和感を感じていたのは、例えば小説好きを自称しながら、ケータイ小説本のタイトルしか挙げなかったり、感動したとか直感でとか言いながら浅薄で、その作品を本当に味わっていないようなケース。
もちろん大衆文化も良いし、感覚で捉えるのも良い。でも、「そのカルチャーを好き」と言うことで、(自分は文化的で凄いだろう)とマウンティングしようとしたり、一目置かれたいという下心が見えた時、違和感を感じていたのだ。
コンテンツごとの好き嫌いは自由だけど、そのカルチャーを本当に好きなら、興味を持ち、夢中で集めたり調べたり勉強したりするのが普通の文化系だろう。大抵、10代から20代にかけて、本やCDなどのコンテンツを必死に集めたり、情報に触れてさらに枝葉を広げたり、色んな場で格上の人の話を聞き、危機感を感じて鉄板を勉強したり、自論を展開しあう醍醐味を知ったり。それから器が広がり、他の趣味も許容できるようになったり。
ロックならストーンズは必ず行き当たるし、映画ならゴダールは外せないし、アートも文学も名作たちに必ず出会っていくし。そこで自分ならではの「セレクト」にセンスが表れたりする。
でも、それらを全く知らないのにこのカルチャーを知っている、という態度に出られると、周りの人達は気不味く、その場は大人の対応をするしかなく、土俵が違っていることに本人だけが気付かない。
繰り返し確認するが、知識が無くてはいけないわけではなく、その作品や分野への純粋な情熱が有ればOKだ。辞書のように全てを網羅することもほぼ不可能だ。それでも「知っている」というなら、最低限の勉強をしろと言いたい。
勉強することで、さらに多角的にカルチャーを楽しめるようになるし、現代アートのようにコンテクストを読み解く知性の楽しみもプレイできるようになる。クロニクルや背景が見えてこそ、より深く味わえるものも多いし。
なにより、そのカルチャーが「本当に好き」かどうかが大切なのだ。カルチャーが好きな者同士が、感性も知性も人間性も駆使しあっているのは、とてもポジティブで人間らしい時間なのだ。
(補足:なぜこんな見直しをしたかと言うと、楽しいコミュニケーションと対極の事態を我慢してきたからだ。本当にその文化やコンテンツが好きなわけでもないのに、承認欲求をこじらせてそれを好きな振りをして嘘がバレ、本当にそれを好きな人達にスルーされて、その人達を逆恨みしてネガティブをぶつける残念な人達がいたのだ。たとえ話になるが、グルメだと自称する人がフレンチの濃厚で複雑な味わいのソースを食べて「やっぱり料理はシンプルに、素材の味そのままが良いよね」と“誉め言葉”として得意気に言ってしまうようなバツの悪さ。わかってないな、知らないだけならいいが味わってもいないな、グルメを気取るなら最低限のマナーや勉強が必要だ、等々…同士たちは空気を固まらせ、一緒にいることがしんどい。語りたいなら勉強しよう、好きなら他人の承認よりその対象を見つめよう。直には言い辛い内容なので、ここに書く)
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