『太陽を曳く馬』(高村薫 著)を読んで
花形のミステリー作家だった高村薫氏が「小説の中で人を殺せなくなった」(インタビュー談)のは、ご自身も被災した1995年1月の阪神淡路大震災の体験からだそうで、その後10年間、曹洞宗侶・福澤彰之とその血族の大正・昭和・平成にわたる100年の物語の連作を書いてきた。
今作では彰之の実子が犯した殺人事件と、都心の肉山寺院が運営し彰之が代表を務めたサンガでの雲水の轢死が物語の軸になっている。卓抜した筆致についてはすでに定評が確固としており、筆者が感想するに及ばない。改めて驚愕させられたのは洞察力もしくは取材力。
ある雲水の死の背景に、サンガ内に『正法眼蔵』方巻本と2巻本それぞれに依拠した「法論」があった!確かに近年の宗門にもたらされた「根本分裂」の誘因子ともいえる命題の一つだが、まさかそこから物語が紡げるとは...。
一見超俗的にみえるサンガであるが、その全体性の解れ目には個の主張や吐露、人間的な営為と交感が渦巻く。それを件の法論から導き出す手腕には脱帽しかない。小説の成否が「サンガの描写がリアルか」を基準におくならば、実態よりもさらにラディカルな加飾が、サンガの「求道集団」としての本懐に肉迫している。
ただ、これもプロットの一つでしかない。最も重要なのは、僧俗を問わずに、登場人物の底流に共通体験としての「オウム真理教」や「9・11」を脈々と湛えていることである。
これは筆者にとっても、極めてリアルな宗教体験だった。
人は何故信じるのか、何故殺めるのか。聖俗とは何か。
あらゆる「問い」がむき出しになり、世界中の聖性が相対の地平へ舞い落ちた、あの時...。
それは正に、当時の仏教にとっては焼き入れのような鍛錬・補強の時期だったと言えないだろうか。懸命にオウムとの教義の「仕分け」をする過程では、寧ろ仏教自体の持つ神秘性や反社会的な側面にも目を向けざるを得なかった。しかし「9・11」に至って、他の宗教にない「善悪」を峻別しない特徴が、自らへの信仰への新たな裏づけを与えた。
今、仏教に隣接するあらゆる物語・話材は、あの時期を基点にしなければ「リアル」を発露しない。そのことを再確認させられた。
物語には時系列による展開があるが、洞門宗侶にとっての「時系列」は、発心・修行・菩提・涅槃が本来だろう。今作にも創作への確かな「発心」があり、そして展開としての「修行」は定や三昧の深化よりも実存的な群像劇であり、人間的な言葉や行動の応酬がある。その先の菩提と涅槃が描かれないのが、出家者でない作家には分相応と言えるが、かつては輪廻や因果が担っていた仏教の「物語」としての強度や関心が、極めて現世的な領域、発心と修行にある点は見逃せない。
舞台装置としての「現世・今生」において僧侶・宗教者が、宗教の全体性に頼ることなく、個として(孤ではない)どのように志向し、汚泥不染の行実を為せるのか。発心と修行にどれだけの「リアル」を託せるのか。現世に生きる私たち宗侶にとっても、教化や自身の生き方の力点が、そこにある。(副住職 記)