黒王妃の戦争4-新旧融和ならず戦争へ
2020.02.17 02:16
1560年12月5日、仏王フランソワ2世が在位1年で崩御。しかしその5日後には当地オルレアンでは全国三部会の開催が決まっている。そこで動いたのが王母、黒王妃カトリーヌ・デ・メディシスである。新王を弟のシャルル9世に決め、ナヴァラ王アントワーヌ・ド・ブルボンとの共同統治を提案する。
普通なら王母は摂政で異論は出ないが、黒王妃は平民出身。そこでブルボン公を立てたのだが、その元へは「遊撃騎兵隊」の異名をとる彼女の300人の美女女官の1人がもう送りこまれていた、つまり「くのいち」集団、女の色気でブルボン公は共同統治をOKし,カトリーヌは摂政に。
全国三部会は「皆がキリスト教徒」という言葉から始まり、黒王妃の新旧教融和政策が開始された。しかし増税も絡めて議論はまとまらなかった。再度ポワシー会議会議が招集されたが、融和政策に反対するギーズ公らが「三頭政治」をつくり、カトリック守旧派を公然と宣言した。
黒王妃は、新旧対立が激化する中も、新王戴冠、宗教会議、三部会をこなし、その傍らカルヴァンの右腕テオドール・ド・ベースとも秘密会談。その上で62年「一月勅令」を発布、新教の権利を認めた。しかしこの勅令は、三頭政治派の反発を生み、フランスでは第一次ユグノー戦争が始まる。
下はポアシー会議中央にカトリーヌと少年シャルル9世