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BOOK「なぜ性の真実【セクシャルパワー】は封印され続けるのか 」 著者:夏目祭子(なつめ まつりこ)

2020.02.17 02:29

(参考:OSHO タントラとは)

 タントラは言う、猫から学びなさい――その眠り方、リラックスのしかた、その緊張のない生き方を。動物界のすべてが、この緊張のない生き方をしている。人間はこれを学ばなければいけない。というのも、人間は間違った条件付けを受け、間違ったプログラムをされているからだ」


肉体を知れ、とタントラは言う

 「だから、このようなセックスに対立する伝統は肉体にも対立している。セックスに対立しない伝統は肉体に友好的になるしかない。タントラはこの上もなく友好的だ。肉体は神聖なものだ、神々しいものだ、とタントラは言う。タントラにとって、肉体を非難することは冒涜的だ。肉体は不浄だ、肉体は罪だという主張は、タントラからすればナンセンスだ――とても有害な教えだ。タントラは肉体を受け容れる――受け容れるだけでなく、肉体は神聖で、汚れがなく、罪のないものだと言う。あなたはそれを利用し、それを乗り物にすることができる、超越のために! 肉体は超越の手助けすらしてくれる。


 肉体は美しい乗り物だ――とても神秘的で、とても複雑だ。それを使いなさい、それと闘ってはいけない。それを助けなさい。それに対立した瞬間、あなたは自分と対立している。どこかに行こうとする人が、自分の足と喧嘩し、それを切り落としてしまうようなものだ。タントラは言う、肉体を知り、その秘密を知りなさい。そのエネルギーを知り、そのエネルギーをどのように変容できるかを知りなさい――それをどのように動かし、異なる次元へ入らせるかを。

 例えば、セックス、それは肉体の基本的なエネルギーだ。ふつうなら、セックスエネルギーはたんに繁殖のために使われる。ひとつの肉体が別の肉体をつくり、それがどこまでも続いていく。セックスエネルギーの生物学的な有用性は繁殖にとどまる。だが、それは使い道のひとつにすぎない、それも最下位の。否定的なニュアンスはまったくないが、それがいちばん低い。その同じエネルギーが別の創造的な行為をすることもできる。繁殖は基本的な創造行為だ――あなたはなにかをつくりだす。母親になった女性が微妙な幸福感を覚えるのはそのためだ。彼女はなにかをつくりだした……。

タントラには、どのような非難もなく、いかに変容するかの秘密のテクニックしかない。タントラがこれほど肉体について語るのはそのためだ――それは必要とされる。肉体は理解されなければならない。あなたは自分が今いるところからしか始められない」

タントラはすべてを受け容れる

 「タントラはすべてを受け容れる。どんなものでも、こころの底から受け容れる。タントラがセックスを全面的に受け容れることができたのはそのためだ。この五千年間で、タントラはセックスを全面的に受け容れた唯一の伝統だった、世界中でこれだけだった。なぜだろう? それはセックスがあなたの今いる地点であり、どんな動きもあなたが今いる地点から始まるからだ。

 あなたはセックスの中枢にいる。あなたのエネルギーはセックスの中枢にある。そしてその地点から上昇しなければならない、はるか彼方にまで。この中枢そのものを拒否すれば、進んでいると自分をだましつづけることはできても、一歩も進んではいない。あなたは進むことが可能な唯一の地点を拒否している。だからタントラは肉体を受け容れ、セックスを受け容れ、あらゆるものを受け容れる。そしてタントラは言う、知恵はあらゆるものを受け容れ、それを変容させる。無知だけが拒否する。無知だけが拒否し、知恵はあらゆるものを受け容れる。毒ですら薬になるが、知恵を通さなければならない。

 肉体は肉体を超えたものへの乗り物となるし、セックスエネルギーは精神的な力になる」


あるがままの自分を受け容れなさい、とタントラは言う

 「タントラは言う、あるがままの自分を受け容れなさい。あなたは多くの多次元的なエネルギーの大いなる神秘なのだ。それを受け容れ、そのあらゆるエネルギーとともに動きなさい、深い感受性、気づき、愛、理解とともに。それといっしょに動きなさい! そうすれば、あらゆる欲望がそれを超えるための乗り物になる。そのとき、あらゆるエネルギーが助けになる。そしてそのとき、このまさに世界がニルヴァーナ、このまさに肉体が寺院となる――神聖な寺院、神聖な場所に。

 ヨーガは否定だ。タントラは肯定だ。ヨーガは二元性の語彙で考える――だからヨーガという言葉がある。それは二つのものをひとつにするという意味だ、二つのものをいっしょに「つなぐ yoke」という意味だ。だが、そこには二つのものがある。二元性がそこにある。二元性はない、とタントラは言う。二元性があれば、それらをつなぐことはできない。どんなに努力しても、それらは二つのままだ。どんなにくっつけようとしても、それらは二つのままで、闘いが続き、二つのものがとどまる。

 世界と神が二つのものなら、それらをひとつにすることはできない。それらがほんとうは二つではなく、二つに見えているだけなら、そのとき初めてそれらはひとつになりうる。あなたと神が二つのものなら、それらをくっつけられる可能性はない。それらは二つのままだろう。

 二元性はない、とタントラは言う。それは見かけにすぎない。だったら、どうして見かけをよりもっともらしくしようとするのか? 今すぐやめてしまいなさい! ひとつでいなさい! 受容を通して、あなたはひとつになる、争いを通じてではなく。世界を受け容れなさい、肉体を受け容れなさい、それに内在するあらゆるものを受け容れることだ。自分のなかに別の中心をつくらないことだ。というのも、タントラにとって、その別の中心とはエゴにほかならないからだ。エゴをつくってはいけない。あるがままの自分を意識しなさい。闘うとき、エゴがそこにある」


プロローグ

私は少なくとも今回の人生で、「本物のセックス」を体験し、「正解の愛」にたどり着いたと感じている人間の一人だ。ありていに言えば悲惨なことの多い生だったものの、その点については満足して死ねると思っている。

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本当は、たった一人が相手でも、氣を与え合って循環させるなら、性のエネルギーは枯れることなく無尽蔵なはずなのだ。

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これらは、太古の世界の常識とは、まるで逆ということがわかるだろう。かっては、女性の月経は、女性の持つ聖なる力の証と見られ、その月経には命を育む栄養が宿っているものとして、大地に還された。また、悟れないどころか、女性の神霊につながりやすい能力は尊重されていたのだから。

そんな女性と男性の結びつきがあってこそ、共に悟りに近づく通路が開かれることを、太古の人は体験的に知っていたのだろう。

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◉キリスト教何セックスを品質劣化させたカラクリ

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なぜ、権力者はそこまでセックスを叩かねばならなかったのか?そこに、長く封じられ続けてきた、セックスの真価が隠されている。

人が全身全霊のセックスで味わえる事実の喜びを知ると、強い生命力が湧き出てくる。すると、他人に振り回されずに、自分の中から湧く力によって立てる自立心、すなわち誰にも支配されない自由な心を持てるようになるのだ。そうなるともはや、権力者の言うがままに行動しなくなるのは目に見えてある。それを恐れる気持ちから、人々の意識を小さな枠に縛りつけておくための洗脳装置として、これらの宗教教義を作成したのだ。

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また、この仕掛けの効果は、もう一つある。射精だけに据えられたセックスは、人間が生まれ持った全身の感受性の満足には至らない、短く味気ないものとなってしまう、ということだ。夫婦のセックスは子作りのためにこそある、と刷り込まれた結果、どうしても射精本位に行為をそそくさと済ます結果となり、満たされ切らずに余った性感を、外で発散せねばならなくなる、という癖がつけられるわけだ。これぞお上の思うツボである。

では、精神面の仕掛けは何かといえば、セックスの快感を神霊的な次元人間通じさせずにおくために不可欠なら、「罪悪感の埋め込み」である。これが最も顕著であったキリスト教では、セックスを子作りのまでに必要ないものとしてではなく、快楽として味わう時堕落したとみなされ、神父の元で告白と改悛をさせられた。

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それでも、こんな言いがかりがつけられた。"女の体は、男に理性をうしなわせて動物的な欲望はと引き摺り下ろす、「いやらしい・淫らなもの」だ"

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とにかく、命懸けで愛の実践を説いたイエスの死後、教会権利として組織化されたキリスト教は、一部の人が伝え残したように、イエスが相思相愛の伴侶を持っていたという事実を隠蔽し、伴侶・マグダラのマリアを「娼婦」で信仰により汚れから救われた弟子の一人として偽ってまで、セックスを聖なるものから切り離して、罪のにおいをまぶしたのだ。

大丈夫、私たちは生まれながらの罪なんてしょっていないよと、かにかと集団周囲を巻き込む自滅的行為に走りがちな伝統を持つ、組織としての彼らに言ってあげたい気がする。もし「原罪」などというものが本当にあるとすれば、当時の宗教的支配者たちがアダムとイブの話をデッチ上げて教えた、そのことこそが「原罪」なのだと。

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◉性欲は動物的本能ではない別の物


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だからこそセックスのすると、肉体だけに限らず、このオーラも混じり合うことになる。けれど、セックスを罪悪視させたり、」下半身だけの問題」とさせる刷り込みのお陰で、性の交わりが、全身全霊を解け合わせる行為なのだという真実が忘れさられてしまった。

「全身全霊の行為」とは、こういうことだ、、、。体の深いところで波長のあった空いてと、目に見える肉体だけで無く、目に見えないエネルギー体としてのオーラや、胸の裡に抱える魂などもひっくるめて、自分が持っているすべての器官を使って全力で頑張ります一つになろうとすること。そういう交わりであれば、一過性の快感とはまた違った、底深く、事後まで長く残るセックスの喜びを体験することができる。その時、この世よりさらに高い空間、つまりそこから新しい命が生まれ出てくる領域との間にあるとびらが開くのかもしれない。ただしそれは、よほど感受性を研ぎ澄まして、まじわる相手を心を込めて選ばなければ、実現できるものではない。それは自然の摂理のように、一人づつ個性的な波長を持つ、肉体やオーラにエネルギー何うまく適合する、特定の相手との間ですがこそ開かれる神秘なのだ。

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けれども、本当に「交わるべき相手」とであれば、肉体同士が触れ合うより先に、オーラ同士が混じり合っただけで、セックスを最中のオーガズムにも似た震えが体に起こることがあるのだ。

私も、そんな体験を何度もしたことがある。ヨガを詳しく勉強した人ならご存じだろうが、人間の背骨の中心には、肉眼では見えないエネルギー遠上下に行き来させる、シュムナーと呼ばれる管が走っている。深いオルガズムの時には、そこに下から上に向かってるブルブルッと突き抜ける震えが走る。それが交わりの果てに起こる時には、性器の場所から始まるけれども、肉身に触れ合う前に起きるそれは、性器の部分を飛び越えて、胸の中心から湧き起こる感じだ。その震えがやがて、上半身へ、下半身へと波及していくのだ。このように、肉の交わりをしてもしなくてもほとんど同じように、人の体が愛を表現するように造られているということは、驚異ではないだろうか。

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だからこそ、宗教権力を駆使する支配者たちは、一般の人々に対して、この力を封印しようとしたのだ。つまりそう、性が乱れている、という問題は、現代だけの問題ではないということだ。人類はもう何千年もの長い間、セックスを、恥ずかしいこと、罪深いこと、隠れてコソコソやるもの、というふうに教え込まれてきた。自由になったはずの今も、実はその恥ずかしい意識が下敷きになっている。

第3幕 性を「軽いもの」に変えたマスメディアの戦略

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◉援助交際報道に織り込まれていた秘密の意図

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性行為は、まず宗教ヲ通じて「恥ずかしいもの」として人々の心と体にしみる塩にすり込まれ、次に二十世紀に入ってはマスメディアの映像・画像メッセージに依、ひたすらに「軽いもの」としてそそのかされた。

そうしたメッセージは、新聞・雑貨の紙面を彩る報道記事もしくは娯楽記事にも、ドラマやコミックにも、また企業の販売促進のために作られるさまざまな広告の中にも、混ぜ入れられている。

媒体の背後にある大資本の担い手が、ひそやかに案じてきに送り込んでいるコントロールの意図、と言ったものが確かに読み取れるのである。

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第4幕 エネルギーからみたい新・性の心得

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もう一つ、セックスヲ教えるということに関して、女性が男性に、という流れの方がより似つかわしい気がするには理由がある。これまではあまり認められてこなかったが、女性の体に備わっている能力とは、内奥から大きな快感の波を生み出して、自分自身投函性交中の相手との二人を丸ごとその潮の中に巻き込み、交わった相手に生命力を授けるというところにある。

そう、実は快楽に満ちた性交を始めるスイッチは、男性ではなく、女性の側にあるのだ。つまり、古代からの「性慾迷信」は、その逆であるように教えることで、庶民のセックスから真の快楽を奪ったというわけなのだ。

だから男性は自分の体に備わっていない、女性の体の多彩な表現力を知り、その発揮のさせ方をよく学習する必要があるのだ。同時に女性も、自分の体の中でどのように快楽が生まれるのかという仕組みについて、心得ておく必要がある。

第2幕でご紹介した中国の古文書でも、天女が王に性の手ほどきをする役として登場したのは、この真実にのっとったものだったのだ。

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マヤの性教育制度では、女性神官は実に一年近くもの期間をかけて、若者の指導を行った。つまり、それだけ人間の持つ能力をフルに発揮して性交を実現するためには、学ぶべきことは沢山ある、ということだろう。

女性の体からどのようにして快感を引き出してあげられるのだろうか?また、女性の欲求には、月経と関連して、高まる時期と静まる時期との周期性がある。こうした働きに素直に驚嘆し、敬意を払うことをはじめに覚えた男性は、さぞかし妻に選んだ女性の体も、丁寧に取り扱うことができたであろう。そこから、夫婦の営みの好循環が生まれるのだ。

さらに突筆すべきなのは、教育としての性交では、射精を行わないのがルールであったということだ。

精液について理解しておくために、腟外での射精を行うことはあったようだが、まずは不用意な妊娠を避けるバース・コントロールの技術を身につけておくことが重要だったためだろう。

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ということは、当時のマヤの弾性は、いたずらに性液を放出することなく、男女共に満足のいくセックスを行う術を誰もが身につけていたのだと言えよう。

自然のサイクルを重んじるマヤでは、52歳に達した人は、子作りから卒業することになっていた。そして、それ以降は、子作りのまめでないセックスを末長く楽しむことが推奨されていた。つまり、マヤの社会では、のちにカトリック教会が罪だと教えた「生殖を目的としないセックス」を、生涯楽しめる有益なものとして尊重していたのだ。

こうして、人々がそれぞれの家庭で豊かな性生活を享受していたマヤ文明では、長い間、大きな戦乱とは無縁なまま繁栄が続いたという事実は見逃せない。おそらくその二つの事柄に間には、相関関係があるのだろう。

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古い文明の情報の中でも、このマヤほど時間をかけた念入りな性教育が行われていた例はなかなか見つけることができない。とはいえ、処女や童貞に、初体験の指導を行う制度は、どこの共同体にもあったと推測できる。

たとえば、多神教時代の西方世界でも、神殿娼婦という形で性教育が行われていたことは第一幕でお話しした通り。これも、初めての性体験を神域で行うことに意義があって、乙女が大人の女へと自己認識を変える、成人の通過儀礼イニシエーションとして、実際に役立っていたのだろう。

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そしてこの、セックスが「力」だ、という事実こそは、遥かな古代から権力者達が一般市民にひた隠しできたら奥義だったわけだ。一人ひとりの庶民が力をつけてもらっちゃ困るわけだから当然だろう。

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堂々と世界に認められたパートナーとして、本物の性の歓びを全身全霊で味わえた二人組は、それまで一人づつではなく不可能だったことが可能になるような、「神通力」と言えるほどの力が湧いてくるようになる。そうなると、その夫婦は共同で大きな仕事ができる、という強みへとつながる。これが、「結婚」というものの本当の意味なのだ。

第3幕で、肉体の外に広がっている、エネルギー体の例としてオーラの話をしたけれども、さらに体内の内部にも、目に見えないエネルギーに通路やツボがハイチされていることは、ヨガや気功の世界でも経験的に実証されている。セックスのさ中に震えを伴う感覚として体内を走るオーガズムは、その通路の幹の部分にあたる、背骨に沿ってある「シュームナー」というエネルギー体の管を、生命エネルギー学習上昇していることの表れでもあるのだ。

また、エネルギー体のツボは「チャクラ」と呼ばれ、全身に大小合わせて二百数箇所あると言われるが、その中で主要な役割を果たす代表的な七つのチャクラは、中央通路であるスシュムナーに沿うように配置され、それぞれ肉体の中の重要なホルモンや臓器と連絡し合っていることがわかっている。

たがら、本当に「体が合う」と言うのは、エネルギー体であるチャクラの部分からしてよくなじみ合うものだ。そういう相手となら、交わるほどに、お互いに体調が良くなり、能力を増幅し合うような"相乗効果"が生まれる。これがどちらかが元気になり、もう一方が消耗していくなら、それは合っているとは言えない。

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セックスは、そんなつもりはなくとも、相手と融合してしまう行為だ。

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自分の性欲を恥じることなく、包み隠さず自分できない認めてやることは必要だ。

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最終的には、人生のプラフもマイナスも共に引き受け合えるような、運命共同体と言える相手とこそセックスが出来ればそれに越したことはない。

154

そもそも「性」という字は、「心」を伴って「生きる」こと、と示されているではないか。本当は、心を伴わなければセックスは成立しないもの、といえるだろう。

154

"これは、自分の「生」の相方だ"という感覚を伴わない相手とは、もはやセックスしようとする意欲が薄れていくだろう。

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かのように蛇は、人間に創造のエネルギーと、それを使いこなすための叡智を授ける、聖なる役どころとされている。

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そうして、偽りのない性のエネルギーに充されて生きる人たちで覆われた世界が来ることを、私は心から願っている。

第6幕 寂しがる心に必要な手当て

「愛情不足」は、「愛され足りていない」のではなく

「自分が愛を外へ表現し足りていない」というのが

本当の意味であるのだ。にもかかわらず、

外からの「愛」かき集めようとするほうへ誘導され、

本人も求めてしまうから、いつまでも満たされない。

体は本人の発散・放出する「愛の量」で判断しているのだ。

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「ダイエット」と「恋愛・セックス」この2つはどちらも、女性に「そのままの自分では価値がない」と思い込ませることによって、成立していることにお気づきだろうか?何しろメディアからは、「このままのアナタ」よりも「もっとヤセている女」で「もっと男性に喜ばれる女」が高く評価されるよ、というメッセージが絶えず発信されている。

それは太古のような、一人ひとりの女性が、女という機能を持っているだけで自然治癒力の体現者、いわば"女神の性質を持つ存在"として尊重された社会的とは、まるで正反対ということがわかるだろう。

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第6幕 あなたの中のセクシャルな女神と男神

一人ひとりの中には、女神と男神の両方が内蔵され

陰と陽、女性エネルギーと男性エネルギーが含まれている。

性の交わりは、二人の純感による女神と男神の融合を意味し、

自然界に美しいエネルギーを放出する。

元々の人間と言うのは自然界にも喜ばれる様な

「美しい生き物」だったのだ。

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◉射精を最後の目的にしないセックスのために

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パートナーと全身全霊で融合するような性の交わりを実現するやり方についてお伝えします。

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これに対して、射精を最後の目的としない、全身全霊の融合型セックスは、女性原理の図と同様、「ぐるぐる円をなして循環を繰り返す曲線」だとイメージしてほしい。

昂まっては静まる、繰り返し起こる波に乗せながら、好きなだけ続けることができる、またいつでもやめることができる、そんなイメージである。

そのため男性は、昂まりがこみ上げて来た時に、それがただちに射精に向かうことのないよう、骨盤底筋をキュッ友だち引き締めると同時に、そのエネルギーを頭上に導くことで、波をやり過ごすことを繰り返す。急いで終幕を目指さずに、体内の熱を温存しながら、長い会話のように全身の触れ合う時間を継続することは、お互いの性エネルギーをとろ火で煮込むような作業かもしれない。

波形静かな局面にいる時は、身も心も、興奮というよりその対極の「くつろぎ」の中にとろけているようであればいい。弱めの快感が継続する状況は、実に瞑想にも似ている。

 

そこで努めて興奮状態遠作り出そうとしなくても、やがて潮が満ちるように、強い快感が突き上げる局面が訪れる。特に、全身の感覚器官がより敏感な女性は、何度もこれを「震え」として体感するだろう。この時大切なのは、その震えを相手の男性としっかり抱き合って、エネルギーの交流として分かち合うことである。

二人が充分に満たしあった後、男性は締めくくりに射精したほうが収まりがつけやすいものと思う。けれど、慣れていくうちに、何度かに一度は、射精しなきのに満足して終えられる日も出てくるかもしれない。この決め手は、男女共に「充分な震えを味わうこと」にある。

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◉エネルギーが循環させる呼吸法

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こうした交わりが可能になる前提として、お互いがヨガ流の腹式呼吸人間慣れている必要がある。


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