お釈迦様でも教化出来なかった男(令和2年2月法話)
お釈迦様のお弟子の中に、ゼンセイという度し難い男がいた。
ある時、お釈迦様が帝釈天のために説法された折、
仏の長座に嫌気がさし、よからぬことを考えた。
その当時の風習に、
「子供が泣いた時などに、『泣く子はハクラキ(鬼)にやってしまうぞ』と言って脅すのであった」
この事を思い出したゼンセイは、
「世尊よ。早く寝室にお入りなさい。ハクラキがやって来ますから」とお釈迦様に。
すると、「たわけ。仏には恐ろしいというものが無いということが、まだ分からないのか」と、たしなめられた。
その時、帝釈天が、
「ゼンセイの様な者でも、仏に成る性質を前世から持っているのでしょうか?」
「人には仏に成る性質は、皆あるのだ。ゼンセイの様な者でも、終には救われる。
しかし、彼のためにしばしば説法するけれども、今のところ聞こうとする様子は見えない」と。
そして外道(げどう、仏教以外の邪教)の教えを信じて、お釈迦様の教えを信じることはありません。
また、禅定を得ても、かえって邪見を起こし、それが後戻りし、口癖のように仏を否認し、法を否定し、涅槃の存在を排斥して、
仏が予言や、人心の機微に触れるのは、仏が人相を見る術を心得ているからで、別に不思議ではないと言いふらしているのであった。
ゼンセイがお釈迦様の許を離れてナイランジャナ河にいた時に、仏はわざわざ訪ねられた。
しかし彼は仏の来訪を喜ばず、悪心を起こして仏に対したために、そのまま地獄に堕ちてしまった。
その時、仏は
「ゼンセイという修行者は、せっかく仏法という計り知れないほど多くの宝を持ったこの教えを、
何の得る所もなく、少しも利益を得ていない。
それは、自分の気まぐれと、悪友のためにそうなったのだ。
例えば大海の中で宝を見つけても、気まぐれのために少しも手に入らず、悪鬼羅刹に殺されるようなものだ。
かねがね彼を哀れに思って、何くれとなく気を使い、たしなめて来たが、何としてもそれに耳を貸そうとしない。
ゼンセイは、教法にも通じ、禅定も獲得していたが、その後、下の位に落ちた者だ。
私は昔からゼンセイに毛ほどの善根でもあればと捜しているのだ。
彼の毛ほどの善根があれば、彼は結局救われると思う。
しかし残念ながら、毛ほどの善根を見出すことが出来ない。
それゆえ結局、地獄へ堕ちることから彼を救うべき方法がないのだ」と。
(仏教説話文学全集から)
☆ ☆
お釈迦様でも救えない人がいるというお話です。
仏様と「縁なき衆生は救いがたい」と言われますが、
仏の縁があっても助からない人があると。
それは、仏の教えを信じない人。
気まぐれな人で、悪友と付き合いのある人。
善根を毛ほども積んでいない人。
そして、修行を積んで仏へ近づいていても、心がけ次第で仏から遠ざかることもあるのだという事も覚えていたいことです。
謙虚な気持ちを持ちとどけ、精進大事と思います。