【神人靈媒日記】 〜靈媒とは靈の操り人形ではない〜
〜靈媒とは靈の操り人形ではない〜
靈媒とは靈存在の媒体となる者であります。
しかし、靈媒は悪しき靈に、もてあそばれたり、しもべとなってはならぬものなのです。
靈には善悪色々な種類のものが存在しますが、靈が人に対して何をしても許されるというものではありません。
靈が上で人が下なのでは決してありません。※靈に対して正しくものを言える人にならなければ、誠の靈媒としての役目は果たせないものなのです。
靈は尊ぶべき存在であると認識している人は悪しき慣習に洗脳された人であり、真を理解出来ていない浅はかな人です。
人にも善悪色々いるように、靈にも善悪色々な存在がいることを深く理解した上で、真偽を見極められる審神者とならなければ、ずる賢い悪しき靈の操り人形になり兼ねません。
靈がかりを神がかりと称して人々に狂った姿をみせる靈媒では決してならぬのです。それは滑稽な姿であり、ただの異様な者であり、側から見て恥ずかしいことなのです。
靈が人に危害を加えることも、隷属化することも、偽りを解くことも決して許されることではないのです。※靈性高き良き靈であるならば、肉体人の状況を把握した上で必ず配慮することが出来るものなのです。負の氣もなく、危機回避するため以外では強制的な動きは取らないものなのです。神や仏、天使や宇宙人を名乗り現れる靈の殆どが、人を足場として悪しき企てをする悪しき靈の類であることを靈媒の者は理解しておくべきです。疑うことの出来る心の目、心の耳、心の鼻、心の舌、心の肌を研ぎ澄ませ、ひとつひとつ真偽を見極めることです。善の振りをする悪=善の仮面を被った悪=善の悪は、人の世界も靈の世界にも非常に多いものです。悪の振りをする善=悪の仮面を被った善=善の悪は、非常に少ないものです。
靈媒としての誠の役目を果たすためには、真を理解した上で、人を靈を諭し導く心強さと、命懸けで貫く真の靈媒としての使命感が必要です。
その為には、あらゆる靈験も人生経験も必要となるのです。靈の姿が見える、靈の声が聞こえる、靈を感じる、靈によって身体が動く、ということは何も特別な存在なのではなく、ひとつの個性であり体質に他なりません。
すべての真実を理解出来ている訳でもなく、別の視点からの学びが始まったに過ぎないのです。時間をかけてゆっくりじっくり学びながら分相応の役目を務め己を高めてゆけば良いだけなのです。
世の中には、高いお金を支払ってわざわざ靈能者や超能力者の類いになろうとする人々も沢山おられるようですが、その殆どの方々の行く末は、悪しき靈のしもべであり、悪しき靈の操り人形となる方々でもあります。
なぜならば、特別視されたいという歪んだ自己愛が根底に潜んでおり、幼稚な自己顕示欲こそが魔を奨励する器となることを理解できていないからです。
見掛けだけの善なる者というのは、この世にもあの世にも非常に多いものです。
既成概念や他の声に惑わされずに、冷静に心の声に耳を傾け真偽を見極められる人になることは、靈媒者だけではなく、すべての人々の目指すところであるのではないでしょうか?
2018.11.24 神人 拝