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クララ・シューマン①

2020.02.19 14:13

 昨年の話になりますが、2019年9月、10月、日本シューマン協会札幌支部では定期演奏会<クララ・シューマン生誕200年記念>をテーマに、クララへ焦点をあてて2夜に分けて演奏会を行いました。

 

 たくさんの文献、ドイツ語の文献も読み(ドイツで暮らしているからと言ってなかなか向上しない語学能力💦 いつになってもドイツ語の文献を読むのは至難な作業です)、自身の演奏に加えて、クララの人生を追いながらプログラムノート 、演奏会解説作成のお手伝いをしました。

 演奏会ではせっかく様々な情報をお届けしても、その時一度で終わってしまいます。『すでに多くの文献を読み時代や作曲家、作品を立体的に語ることのできる知識豊富な大学の先生の講義聴く』ような高度なレポート‼︎からはほど遠いですが、作曲家や作品を垣間見ることのできる内容を私なりに書き留めていきたいと思います。


 今回は2019年1月にLeipziger Blätterからクララ生誕200年を記念して刊行された特別雑誌(↑写真が表紙です)の一部も訳しながら、クララ・シューマンについて書いていきます。

 この冊子には、興味深かったクララに関する内容、日本で発行されている書籍に書かれているエピソードなどもありましたが、その頃の時代背景、1848年革命の話などが並行して補足されていたり、クララのお弟子さんの活躍の様子なども書かれていたり…多彩多様な角度から14人の著者が書き綴った、それぞれがまったく異なる内容が80ページを越えてまとめられています。在庫があればまだ購入できるのでは、と思うので(2020年2月現在の私の見解です)、興味のある方は直にこのLeipziger Blätterにお問い合わせしてみてください。

 ではクララ・シューマンのお話を…✍️


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 クララ・シューマンと言うと、みなさんはどんな印象をお持ちですか?

 ロベルト・シューマンの妻、ロマン派時代の唯一無二の女性ピアニスト、初めて演奏会で暗譜で演奏したピアニスト、女性作曲家…どれも真実ですよね。今の時代に生きていてもスーパーウーマン間違いなしです。


 ドイツでは、ドイツ人ほぼ全員がその肖像画を知っています。なぜなら現在のヨーロッパ通貨がユーロになる前、ドイツの100マルク紙幣にはクララの肖像画が使われていたからです。

 マルクからユーロに替わる寸前に留学してきた私は、紙幣を眺める余裕などなくて、この100マルク紙幣を使っていた当時、クララ・シューマンのが印刷されていることにあまりピンときていませんでした。のちに

ユーロに変わってしまってから、知り合いに「100マルク紙幣取ってある?」と指摘されて、慌てて一枚だけ手元に置いておきました。今思えばもう少したくさんとっておけばよかったなと思います。

 そんなわけで、ドイツ人はクララが誰かを知らなくても、100マルク紙幣の女性として記憶していると思います。


 クララは1819年9月13日、ドイツのライプツィヒで産まれました。父は楽器商 兼 優秀なピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク、母親はピアニスト、歌手として活躍していたマリエンヌでした。

 クララは4〜5歳でようやく話し始めた、と言います。あまりにも話し始めたのが遅かったため、両親は知覚障害だと考えていたそうですが、どちらかというと原因は両親の不仲にもあったとか。他にも原因はあったと思いますが、精神的なものも大きく反映していた、と言われているそうです。


 結局クララの両親はクララが4歳の時に別居、その後離婚し、クララは父・ヴィークに育てられました。

 クララは7歳まで義務教育を受けたのち、学校を辞めています。その後、8歳でようやく年齢に即しスムーズに話し始めましたが、学校には戻らなかったようです。


 このような状況の中、クララはすでに5歳からピアノの稽古を始めていました。父・ヴィークの英才教育は

非常に熱心で、『クララを完璧にプロデュース』していました。

 父・ヴィークは、クララの演奏会、そのための演奏プログラム、旅やツアーの計画、はもちろん、普段は

クララの1日の過ごし方(父との練習2時間、作曲、歌の稽古、1人で練習する時間が2〜3時間、そして数時間の散歩など)、クララの日記に至るまで、クララのためにとすべて逐一管理してました。このクララの生活は16歳まで続いたそうです。


 父・ヴィークの『クララ・プロデュース』は成功し、クララは9歳でゲヴァントハウス(ライプツィヒのコンサートホール)にて初演奏、11歳で同ホールでソロコンサートデビューを果たし、同年作曲作品を発表、12歳でレッスン生を教えるようになっていきます。

  あの驚異的なテクニックで観客を魅了したヴァイオリニスト・パガニーニがライプツィヒを訪れた時、クララは演奏を聞いてもらい、パガニーニ本人から「芸術を天職とするべき」と評価を受けています。もちろんこれも父・ヴィークの手腕により実現したVorspiel(フォアシュピール=演奏を聴いてもらうこと(オーディションのこともVorspielといいます))でした。

 パガニーニの評価はクララの演奏のみならず、父・ヴィーク自身のピアノ講師としての実力を、絶対的に裏付けるものとなったことでしょう。


 ヴィークとクララはドイツだけに収まることなく、ヨーロッパ各国に演奏旅行に出かけ賞賛を得ます。父・ヴィークはクララを素晴らしいピアニストに育てていくことで、経済力だけではなく、ピアノ講師としての実力者という名声を確実なものにしていきました。

 実際、クララのピアニストとしての素晴らしさは、ニュアンスに含んだ打鍵技術、歌心に溢れたレガート奏法や流麗なパッセージ奏法を持ち味とし、機械的な指の動きのみを誇示するのではなく、心に沁みる音で情感溢れた表現力にあったと言われています。これはまさに父・ヴィークが目指したところでした。

 

 今も昔も出る杭は打たれる…のか、ヴィークとクララは非常に高い評価を受ける一方で、嫉妬や妬みも買いました。演奏会場の貸し出しを拒否されたり、チケット収入は僅かでも出費はばかにならない経験もし、また時に聴衆の反応は冷たく、演奏の真価を認められないこともありました。

 他にも、演奏旅行では宿に恵まれないという問題も抱え、ときには演奏会場の楽器(ピアノ)もひどい状態であったこともあり、クララは幼いながら辛苦を耐え忍んだと言います。のちのクララの人間性を知る人は、これらの経験がクララに途方もない忍耐力を身につけたのではないかというほど。家庭を持つようになってからのクララのお話にまた改めて書き留めていきたいと思いますが、クララの人物が描かれる時、彼女が非常に忍耐強い女性であったということも特筆されます。彼女の忍耐力が子供時代の特殊な体験による影響で培われたものであることも充分考えられるだろうと思います。

 

 このような多忙な演奏活動と、父・ヴィークに管理された生活の中で、クララはすでに9歳の時にロベルト・シューマンと知り合いました。1828年のことです。

 この時期、ライプツィヒでの音楽愛好家の集まりで演奏し、演奏経験を積んでいたクララでしたが、この愛好家の集まりには、ライプツィヒ大学で法学を勉強するために故郷ツヴィッカウから出てきたロベルト・シューマンがいました。音楽の才能が認められていたロベルトは、しだいにヴィーク家で行われる音楽の集まりにも呼ばれるようになり、ヴィークのピアノレッスンを受けるようになります。

 そしてクララが11歳の時、ロベルトはヴィーク家に住みこみ、ヴィークのレッスンを受けるようになるのです。

 

 のちにクララは、ロベルトに「いつも世界でひとりぼっちだと感じていた私に、あなたはようやく青春時代を与えてくださるでしょう」と書いています。クララは『少女にとってもっとも必要な母の愛を味わうことができなかった』想いをシューマンに吐露していました。

 クララが11〜12歳の頃作曲し、ロベルトに贈った作品があります。


クララ・ヴィーク作曲

ピアノのための<ロマンス・ヴァリエ> 作品3(1831年作曲 1833年に変奏曲として出版)


 クララは、この作品をロベルトに贈った時「このささやかな楽想から、あなたが何か気の利いた曲を生み出してくださったら、私の稚拙な作品も救われるでしょう」とクララ自身の気持ちを添えたそうです。

 そしてその2年後、今度はロベルトが<クララ・ヴィークの主題による即興曲 作品5>をクララに贈っています。クララの作品の主題を用いたこのロベルトの作品は、クララの作品へ返答したものだったのです。