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東京 (23/02/20) 江戸城 (2) 外曲輪12門 / 外濠 (2) 小石川見附門

2020.09.22 12:05

江戸36見附 外曲輪12門 (外濠)


今日は昨日の続きで、昨日、日没になった筋違見附門まで行き、次の見附の小石川見附門までの外側にある大名屋敷を訪れる。


高田藩榊原家中屋敷跡 (榊原家池之端屋敷、旧岩崎邸庭園)

筋違橋門のある外堀の北に幾つかの大名屋敷跡がある。高田藩榊原家中屋敷が現在の旧岩崎邸庭園がある。上野の不忍池の直ぐ近くだ。

高田藩は現在の上越市にあった藩で、初代藩主は家康六男 松平忠輝。榊原家は伊勢から出た武家で初代康政は徳川四天王と称され館林藩主を務めた。その後、榊原家は白河、姫路、村上 (新潟県) に転封、再度、姫路、そして榊原家9代 政永が1741年 (寛保元年)に高田へ移封となる。 そこから明治維新まで、6代約130年藩主を務めた。インターネットでこの高田藩榊原家の江戸での屋敷の規模について情婦が載っていた。高田藩主となって7年目の1748年 (寛延元年) 時点では、 高田から江戸藩邸に詰めていた藩士の数は、 高田藩の総勢2,150人の約四分の一に当たる530人で、 知行取 (奉行等の高禄者) 48人、 扶持方・切符取 (目付・奉行補佐などの中堅者) 148人、足軽 (代など緒役に付く徒同心) 55人、 中間類279人 (奉行などの配下にあって雑事の処理者) と紹介されている。思っていた以上の数が江戸詰をしていたには驚いた。現在の会社で25%が駐在とか常時出張は経済的にも辛いだろうし、家族と離れた二重生活は厳しいものであっただろう。この高田藩のある上越市には東北を旅した時に訪れているのだが、その時の紀行録はまだ未完成。榊原家が高田藩になる前に藩主であった村上にも訪れている。その時の紀行録は Tohoku Hokuriku 東北北陸の旅 51 日本海沿岸 (3/11/18) 村上城

江戸幕府が倒れ、明治維新後、この屋敷は、先ず西郷隆盛の腹心の陸軍少将 桐野利秋が、住居として購入。その後、桐野が西郷を慕いか下野し鹿児島に戻った後に、旧田辺 (舞鶴) 藩主の牧野弼成の所有となり、 明治11年に、岩崎彌太郎が購入し、明治29 (1896) 年木造二階建て洋館を建てている。太平洋戦争後、米国CIAに接収され、後に日本政府の管理隣現在に至っている。民間の手に渡らなかったので現存しているので、非常に貴重な史跡と思う。


加賀藩前田家上屋敷跡 (東京大学赤門)

高田藩榊原家中屋敷跡 (榊原家池之端屋敷、旧岩崎邸庭園) の裏には東京大学赤門で有名な加賀藩前田家上屋敷跡がある。さすが上屋敷だけあり広大な敷地だ。前田家は徳川将軍家との姻戚関係もあり、準親藩として松平姓と葵紋が下賜され、準親藩として格別の扱いをされていたにもかかわらず前田家の上屋敷が外堀の外側にあるということに疑問がある。何故だろう? 前田家が江戸幕府からかなり警戒されていたからだろうか? 実際に歴史では前田利家の死後、その子の利長は家康暗殺を画策していたと疑われ、関ヶ原の戦いでは、弟の利政が西軍に加担したなど、ゴタゴタがあった。ただ、豊臣に近い存在として、徳川幕府の重臣からは警戒されていたに違いない。この前田家上屋敷の北側には、先ほどは下屋敷を訪れた水戸徳川家の中屋敷がある。

大大名として加賀藩の参勤交代が豪華だったと伝わっている。毎回約2000人から4000 人規模で行われ、1635 (寛永12) 年から、廃止となった1862 (文久2) 年まで229年間に190回を数え、毎回5~6億円の費用がかかったという。加賀藩初代藩主 前田利家の時代には150 億円分の資金はなくなり、5代藩主 綱紀の時代には 60回も行われ赤字に転落したという。江戸屋敷、参勤交代という表面上は立派で豪華なものに見えるがその裏にある実情は、幕府の大名の経済的弱体化のしたたかな思惑があったのだ。

この前田家上屋敷跡は隣の水戸徳川家中屋敷の一部、富山藩上屋敷・大 聖寺藩上屋敷も含め、全敷地が東京大学のキャンパスになっている。有名なのはその玄関の赤門 (旧加賀屋敷御守殿門) だ。将軍家から妻を迎えた三位以上の大名の住居は「御守殿」と呼ばれ、その玄関である朱塗りの門を御守殿門と呼んでいた。この朱塗りの赤門は加賀藩の第13代藩主 前田斉泰が1827 (文政10) 年に11代将軍徳川家斉の第21女の溶姫 (やすひめ) を正室に迎えた際に建立された。

安藤広重がこの赤門を描いている。

東京大学キャンパス


水戸藩徳川家中屋敷跡 (水戸藩駒込邸、東大農学部/地震研究所)

前田家上屋敷に北側には水戸藩徳川家中屋敷があった。水戸藩駒込邸の研究の論文がインターネットにあった。その論文の中でこの中屋敷の構造や水戸藩江戸屋敷の変遷についての記述があった。この敷地の構造を見ると、藩主の住居の御殿と藩士の住居である長屋と実務を行う役所がある。御殿には庭園もついており、更に藩主が執務を行う表御殿とミニ大奥にあたる裏御殿がある。屋敷は3つの門以外は塀に囲まれ、さながら城の本丸、二の丸といった感じにも見える。他藩の屋敷も似たような造りになっていただろう。屋敷の変遷表には何回か引越しをしていることが書かれてある。大名屋敷は幕府から拝領するもので、拝領と言ってももらうのではなく、貸してもらっていると言ったほうが近いだろうが、幕府の裁量で移転を命令される事があったそうだ。

現在は東大農学部と地震研究所になっている。農学部のキャンパス内に銅像がある。東大農学部と犬といえばピンとくるだろう。忠犬ハチ公とここで研究をしていた上野英三郎博士の像だ。2015年にハチ公没後80年を記念して立てられた。不可解なのだがここの農学資料館にはハチ公の臓器が展示してあるそうだ。何故かよくわからない。


西教寺 (酒井雅楽頭屋敷門移設)

水戸藩徳川家中屋敷跡のそばに立派な朱塗りの山門の西教寺がある。立札が立って何か説明してある。文化財なのだろうと見てみる。現在の大手町にあった徳川家の重臣であった酒井雅楽頭の上屋敷の門だそうだ。1874年 (明治7年) に移築されたとある。この門も先ほどの東大の赤門と同じく朱塗り。酒井雅楽頭の上屋敷は「御守殿」であった。江戸幕府の譜代大名であった酒井雅楽頭家第13代の姫路藩主酒井忠学に正室として嫁いだ11代将軍 徳川家斉の25女喜代姫を迎えるために建てられた。 

徳川家康のもとで権勢を振るった譜代の酒井雅楽頭の家だけあり、江戸城大手門の目の前に上屋敷と中屋敷がある。


鳥取藩池田家屋敷門 (移設)

東大の赤門に対して上野の黒門と呼ばれている鳥取藩池田上屋敷の表門が上野恩賜公園の東京国立博物館構内に移築されている。

鳥取藩32万石池田上屋敷は丸の内大名小路 (現 中央区丸の内3丁目 帝国劇場・国際ビル) にあった。鳥取藩池田は備前国岡山藩主の池田家の分家だが、池田輝政と徳川家康の二女・督姫のの子の池田忠雄 (備前国岡山藩2代藩主) の家系であることから、岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を誇っていた。それで江戸城に近い場所に上屋敷を賜っていたのだ。江戸の古地図では池田ではなく「松平相模頭」と記載されている。

この池田氏の居城である鳥取城も訪問した。池田氏は備前 (岡山)、播磨 (姫路)、因場 (鳥取)、伯耆 (島根)、 淡路など領地を取り替えたり、変わったりとかなり複雑だったことを覚えている。鳥取城訪問記はRide in Setouchi & San-in Day 58 (12/5/19) Tottori Castle Ruins 鳥取城跡、池田氏の詳細はRide in Setouchi & San-in Day 60 (14/5/19) Tottori History Museum 鳥取市歴史博物館に残してある。


大聖寺藩前田家下屋敷跡 (須藤公園)

江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩 (10万石) の屋敷が現在の須藤公園 (西日暮里の近く) にあった。その後、長州出身の品川弥二郎の邸宅となり、明治22年 (1889年) に実業家須藤吉左衛門が買い取り、昭和8年 (1933年) 公園用地として東京市に寄付され現在に至っている。

大聖寺藩は寛永16年 (1639年)、加賀藩の第2代藩主前田利常が隠居する際、次男の利次に富山10万石を、三男の利治にこの大聖寺7万石を割いて、富山藩と共に支藩として立藩された。7万石なので小さな藩だった。大聖寺藩が初代 藩主 利治から14代藩主利鬯までの約220年強の間に合計181回の参勤交代を行っており、毎回平均で約 270 人も動員していた。文政年間にはその費用は銀210~ 20貫 (現在の約3億円) にのぼり、大聖寺藩の財政は貧窮していた。当時の藩の総収入銀 934貫文目のうち、330貫文目が参勤交代に使われ、藩の財源の内の 3分の1 が費やされたことにな る。大聖寺藩は赤字を本藩の加賀藩から援助や、北前船主からの御用金で穴埋めしていたという。 


白山権現

江戸見附や大名屋敷とは関係ないのだが、大聖寺藩前田家下屋敷跡の近くに東京十社のひとつの白山権現神社があるので寄り道をする。白山権現神社の創開は古く、天暦年間 (947~957) に加賀国の白山比咩神社を勧請を受けてしたと伝わっている。もともとは本郷にあったのだが、幕府の命で、巣鴨原 (現 小石川植物園内) に移り、その地に当時館林藩主であった徳川綱吉 (後の5代将軍) の屋敷が作られることになったため、現在地に移された。


小石川御薬園 (小石川植物園)

先ほど訪れた白山権現神社はこの場所にあったのだが、神社を移して、承応元 (1652) 年に白山御殿と呼ばれた館林藩下屋敷が建てられ、後に5代将軍綱吉となる幼い藩主松平徳松が住んでいた。将軍就任となり、この屋敷が不要となり、貞享元 (1684) 年に、幕府の南薬園 (現在の南麻布) を廃止し、ここに小石川御薬園を開園した。 小石川御薬園は 8代将軍吉宗の時代に拡張され、ほぼ現在の植物園の形となった。 ここにはドラマで有名になった赤ひげこと小川笙船が目安箱で直訴し、江戸庶民のために40床の施薬院 (養生所) が設けられた。庶民の声を吸い上げる仕組みがあったとは驚きだ。今の政治より進んでいたかもしれない。明治維新後は大学病院附属御薬園となっている。


傳通院

小石川御薬園 (小石川植物園) から江戸城外堀の神田川に向かい走る。途中に増上寺、上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された傳通院があるのでので立ち寄った。徳川家康の生母である於大の方の遺骨をこの地に埋葬し墓を建て堂を建立した。於大の方の法名である「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。

この伝通院は新撰組ゆかりの地との説明板があった。幕末に浪士隊を募集し、清河八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、新選組の前身新徴組を結成し、この伝通院山内処静院で発会をおこなったと書かれている。この伝通院には、ここで登場する清河八郎の墓がある。先に説明した家康の生母の於大の方の墓以外にも、有名どころでは、徳川家忠の長女の千姫、詩人の佐藤春夫、小説家の柴田錬三郎の墓がある。

だんだん日暮れが近づいてきているので、写真が綺麗に撮れていない。この後、日没まで、どれだけの文化財が見れるだろう。


善光寺

傳通院の隣に別の寺がある。善光寺は、もとは伝通院の子院で縁請院といい創建は1602年 (慶長7年)、その後、明治17年 (1884年)、信州の善光寺の分院になった時から善光寺と言われるようになった。朱塗りの山門は姫路藩酒井家の邸門を幕末期に移設したもの。善光寺の脇に坂道があり善光寺坂と呼ばれている。寺の塀は素焼きのプレートで覆われて、それぞれに文字が書かれている。寄進をした人や店の名前だろうか? よくお寺では改築の際に瓦などを一枚一枚寄進しているのがあるが、それと同じなのだろうか?土塀でもいいはずなので、あえて寄進をこのような形で頼むことがあるのか疑問。インターネットで調べたが、何なのかはわからなかった。


石垣跡

神田川に向かって走り、やっと後楽園駅前まで戻ってきた。観光マップではここに江戸時代の石垣が残っていると書かれていた。探すのだがそれらしき石垣はこの写真のところしか見つからなかった。これなのだろうか?


水戸藩徳川家上屋敷跡 (小石川後楽園)

水戸藩徳川家の下屋敷、中屋敷を見てきたが、ここが上屋敷になる。地図で見て分かる様に、東京ドームが敷地の中では小さく見える。ドーム7−8個分ぐらいの敷地だった。さすが徳川御三家だ。江戸時代初期、1629年 (寛永6年) に水戸の初代藩主徳川頼房が、江戸の中屋敷 (後に上屋敷) の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に中国風の趣を取り入れて庭園を完成させ後楽園と名付けている。1869年 (明治2年) の版籍奉還の際に、藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、後に、東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となっていた。

艦が側越しの屋敷はこの様な感じだったそうだ。

上屋敷の周りは漆喰塗りの白壁が延々と続いている。塀の石垣は江戸城の石垣を再利用しているそうだ。ここは小石川後楽園として庭園が公開されているのだが、既に5時をすぎて、既に閉館してしまっている。残念!次回来た際には仲間で見学したいものだ。


高松藩松平家下屋敷跡 (金刀比羅宮東京分社)

水戸藩徳川家上屋敷跡から道を隔てたところに高松藩松平家下屋敷跡がある。地図で見て分かる様に同じ譜代の屋敷でも水戸藩徳川家上屋敷と比べて10分の1程しかない。いかに水戸藩徳川家上屋敷が広かったかだ。高松藩松平家は譜代大名だが藩の規模も違うので致し方ないのだろう。

高松藩は徳川御三家水戸藩の御連枝である名門で水戸頼房の長子の頼重が高松初代藩主となっている。(頼重は初代水戸藩主頼房の長男で本来ならば水戸藩主であったが、父の頼房が二人の兄 [尾張家・紀州家] より先に世継ぎの頼重をもうけたことに遠慮して、弟の光圀に二代目藩主の座を譲った。光圀は兄頼重の長男を養子に迎え、徳川水戸家三代藩主とした。) そのためなのだろうか高松藩邸も水戸藩邸のすぐそばに造られたのか? 現在は讃岐金刀比羅宮東京分社が建っている。金刀比羅は讃岐にある、つまり高松藩の領地にあった。この金比羅さんはもともとは1793年 (寛政5年) に高松藩松平家上屋敷内に勧請され、後にこの下屋敷に移ってきたものだ。讃岐にとっては金比羅さんは特別なものだから、ここに金比羅さんが残っていることには納得がいく。


高松藩松平家上屋敷跡・中屋敷跡 (2020年9月28日訪問)

小石川門の門を内側に入って直ぐのところに、高松藩松平家の上屋敷と中屋敷がある。 ここは発掘調査が行われて、遺構が見つかっている。現在はかつての上屋敷と中屋敷の間に川に変わり、そのうえを首都高速池袋線が走っている。東側が中屋敷で雑居ビル街となり、西側が上屋敷でお洒落なアイガーデンテラス・アイガーデンエアになっている。アイガーデンテラス内には少しだけ上屋敷だったという案内板やモニュメントがあった。

この近辺は発掘調査でいろいろな遺構が見つかっている。

土蔵があった場所

中屋敷はオフィス街で遺構など当時を偲ぶものは残っていない。



[小石川見附門]

小石川門は、寛永13年(1636)備前国岡山藩主の池田光政が築いた。この門は門前に水戸徳川家があったので水戸様御門とも呼ばれ、神田川に架橋された小石川橋外には徳川水戸家の藩主光圀の上屋敷 (8万坪) があった。また神田川を挟んで小石川門内には、光圀の兄頼重の上屋敷があった。寛政4年 (1792) に渡櫓門が焼失したが、二度と再建は許されない決まりであった。

見附門の古写真があった。立派な門だ。ただ明治6年には、桝形の石垣も撤去されてしまった。その時の写真が右。水戸藩徳川家上屋敷も大名屋敷から東京砲兵工廠に変わっている。

そして、現在。今は何も昔の面影がなくなってしまった。

水道橋付近の神田川の様子が古写真で残っている。まだ長閑な風景だった頃。


ここで日没となる。昨日、今日は結局、外曲輪諸門 (外濠) の浅草橋門、筋違橋門、小石川門の3つの見附跡だけだった。見つけ後は全部で36門ある。これに江戸城となると、後1ヶ月はかかる計算になる。今回の東京巡りは今日で終了。江戸城巡りの再開はいつになることやら....