もののけ姫
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【「もののけ姫」のシシ神の秘密に迫る!シシ神のモデルはなに?】
シシ神は、一見すると立派な角を生やした鹿。
でもよく見ると、とても「鹿」と一言で表現できない様相です。角は枝分かれした木が林立しているみたいだし、目は赤く、人間のように正面を向いてついています。赤い顔の色と口元は猿そのもの。頬には緑色の横縞模様。耳はヤギのようで、尻尾は犬。ふさふさのマフラーは冬のカモシカにそっくり。脚はまるでダチョウで、3つの蹄に分かれています。これが昼の姿。
いろんな動物のミックスですね!
夜の姿は昼とまったく違っていて。夜のシシ神は作中で「ディタラボッチ」と呼ばれる巨人です。昼の姿は鹿サイズなのに対して夜のディタラボッチは天をつくばかり! 体には渦巻きのような模様があり、夜じゅう青白く発光して二本足でさまよい歩きます。
ちょっと不気味~。
生命の生死を司り、新月に生まれ月の満ち欠けと共に生死を繰り返す
シシ神とはこういう存在なのだそう。なんとも神秘的です。その力は他のどの神よりも強く、近くにいるだけでアシタカの傷は癒され、キスで乙事主の命を奪いました。歩けばその足元の草は一気に生長し枯れてゆきます。
とっても不思議ですね。
摩訶不思議なシシ神様のモデルは? はたしてその正体は?
昼の姿はひとまず置いておいて。
夜の姿ディタラボッチは日本各地に残る巨人神話、一般にはダイタラボッチと呼ばれる巨人のことですよね。
ダイタラボッチの伝説としては
「富士山を作るために甲府の山をすくったので甲府は盆地になった」
とか
「手をついた跡が浜名湖」
とか
「赤木山に腰かけて、利根川で足を洗った」
とか。
とにかくその大きさはけた違い。どうやらダイタラボッチは国づくりの神のようです。
太陰暦では新月から新月までを1か月と数えます。だから新月とは月が始まる最初の日のことなんです。シシ神は太陰暦と同調して生死を繰り返しているようですね。
「生死」の二文字をひっくり返せばシシ神は「死と再生」の神となります。
じつは「死と再生」の神は世界中に存在します。かのキリストもそうです。人間にとって死ぬことはもっとも恐ろしいことで、それを乗り越え復活する奇跡はすべての人間の願いなんですね。
こうひもといてみると、どうやらシシ神のモデルとなった要素はさまざまです。
でも、けっきょく簡単に言ってしまえばシシ神=自然ですよね。コダマたちと同質のものです。
命の源であり、どこにでも存在し、たやすく破壊できるかと思えば人にはとうてい手なづけられないエネルギーを秘めていて、ときに牙を剝いて人を襲う。そんなものです。
首が撃たれる名場面、怖い!
昼の、鹿のような姿のシシ神って、なに考えているか分からないですよね。
瀕死のアシタカの命を救ったのにタタリ神の呪いを解いてくれなかったし。モロや乙事主がシシ神の森を守るために人間と戦っているというのに、まるで無関心な顔でいるし。とにかく、つかみどころがない。
終盤で、エボシ御前が最初にシシ神の首を撃ったときも、まったく無表情。ちょっとゾッとしませんでした?
ディタラボッチに変身する途中でついに首が落ちるのですが、その後がまた怖いですよね。
切り口から噴き出した黒いドロドロした液体が次から次へとあふれてきて、人どころか森も動物も、すべての生き物の命を奪いつくしていく様子は災害を連想してしまいます。
きっと宮崎駿監督も、火山の噴火とか津波とか、そういうものをイメージしていたんじゃないかと思います。
けっきょく、シシ神様は死んだの?
首を刈られたディタラボッチ(シシ神)はものすごい勢いであらゆるものの命を奪ってゆきます。サンとアシタカが首を返してその暴走は止まりますが、ディタラボッチは倒れ消えてしまいます。あたりは緑の草に覆われます。
「蘇っても、ここはもうシシ神の森じゃない。シシ神様は死んでしまった」
サンはこう嘆きます。
わたしはこのとき「あれぇ? 朝になったからまた鹿の姿にもどったんじゃないのー?」って思ったんですが・・・。事態はそう単純でもなさそうです。
「シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死と二つとも持っているもの。私に生きろと言ってくれた」
アシタカはこう言って自分のてのひらをながめます。アシタカの体じゅうに広がっていたタタリ神の死の呪いがわずかな痕跡を残して消えています。
ふむ・・・?
気になってネットで調べてみると、ほとんどの方は「シシ神は姿は失ったけれど死んでしまったわけじゃない」という意見のようです。
なかには「目に見える形は崩れたけれど、目に見えない細かい粒になって世界中を包む存在になった」と説明している人も。
なるほど。
わたしとしては、シシ神の首をもって逃げているときに言ったジコ坊のこの言葉に注目したいですね。
「見ろ。命を吸って膨らみ過ぎたのろまな死神だ。日に当たれば奴は消えちまう」
野山の植物も動物も人間も飲み込んで暴走をし続けるディタラボッチが命を吸い過ぎて巨大化しているということは・・・その後、首をもどされてあらゆる場所に植物を芽吹かせ、アシタカや業病の者たちを癒し命を与えたことでエネルギーを使い果たし小さくなってしまっただけ、とも考えられますよね。
いずれにせよ、シシ神の姿が見えなくなったとしても、死ぬことはないでしょうね。だって「死と再生」の神なわけだし。いくら死んだように見えても再生するんです。
東京のビル街のわずかなコンクリートの割れ目からだって、自然はたくましく顔を出してくるじゃないですか! 自然はそんなヤワじゃない。
でも、自然を粗末にすればけっきょく自分たち人間が生きにくい環境になるんです。自然への畏怖の念を忘れずに共存するのが、つまり我々人間の使命ってことですね。そう考えると、わたしたちのだれもが、アシタカと同じようにシシ神に、つまり自然に、生かされているんですね。
こんなふうに深く考えられること、それが「もののけ姫」の味わい深いところですよね!
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【「もののけ姫」を読み解く】 より抜粋
2, エミシの村
九世紀まで、東北地方は大和ノ国ではなかった。東北には大和の国境線があり、ここより北は「蝦夷」の統治する別世界であった。蝦夷とは、大和朝廷の侵略により歴史の彼方に消えてしまった謎の民族である。その生活形態・風習・文化水準などのほとんどが未だ解明されていない。
宮崎監督は、多くの研究成果や仮説を踏まえながら、独自のエミシ観に基づく創造世界を作り出している。もののけ姫・サンとも森を伐る大和人とも心通わせることの出来る主人公は、ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を持つエミシの少年でなければならなかった。
人目を忍んで森と共生するアシタカの村。作中の描写から監督の「エミシ観」を推察する。
● 蝦夷とは何か
七二〇年に成立した『日本書紀』は、東北に「夷の国」が在り、そこに「蝦夷」「毛人」などと呼ばれる野蛮な異民族が住んでいると記している。
『日本書紀』の『景行紀』には、「夷の国」に関する記述がある。それによれば、「住民は男女共髪を椎の形に結い、性格は勇敢で凶暴。村には族長がおらず、悪神や鬼がおり、大和の村々を襲っている。夷の中で最も強いのは蝦夷である。冬は穴で暮らし、夏は樹上に住む。毛皮を着て、獣の血を飲み、鳥のように山をかけ登り、獣のように草原を走る。矢を束ねた髪に隠し、刀を衣服に帯びている。辺境を犯し、作物を略奪する。撃てば草に隠れ、追えば山に入る。故に、昔から王化に従ったことがない。(抜粋・大意訳)」とある。これは四世紀頃、景行天皇が息子のヤマトタケルに蝦夷討伐を命じた時の言葉とされる。この頃すでに大和による蝦夷侵略が開始されていたのかも知れない。
また『斉明紀』では、六五九年に遣唐使となった斉明天皇が蝦夷の男女二人を伴って唐(中国)の皇帝に拝謁したと記されている。これには蝦夷を倭国の属国として、皇帝に認めさせる意図があった。皇帝にあれこれと問われた蝦夷は以下のように答えている。「蝦夷には三種類ある。遠き者を津軽、次の者を麁蝦夷、近き者を熟蝦夷と言う。私は熟蝦夷である。蝦夷に五穀の栽培はなく、肉を食べる。宿はなく、深山の樹の本に住んでいる。(大意訳)」と。
このように蝦夷の記述は、一貫して「農耕を知らない野蛮人」との評価だが、これには異国人への敵意と賤視を含めた誇張が含まれていたと思われる。「蝦夷」の当文字は、「蝦」はエビ(ガマガエルとする説もあり)、「夷」は大弓を示しているらしい。いかにも野性的表記で余り好意的とは思えない。実際には、大和に匹敵するほどの高度の狩猟・採集の文化圏を持つ部族であったと思われる。
稲作文化の東進を根拠として成立した大和朝廷は、様々な少数民族を侵略・吸収して膨張して来た。ところが、大和朝廷の勢力は、東北に及ぶに至り最大の障害に突き当たった。それが蝦夷であったのだ。
明確な国家を持たなかった蝦夷の各部族(各小国)は、対大和の戦争に於いて、統一戦線的連合体をなしていったと思われる。
● 隼人・熊襲・国樔・土蜘蛛
蝦夷と同様に、近畿以南には「隼人」、九州には「熊襲」という民族が在ったが、これらの諸族も大和によって併合された。
「隼人」と「熊襲」は同一民族だとする説が多いが、異民族説もある。民族の全貌は、蝦夷同様謎のままであるが、その起源をインドネシアなど南方系に求める説も多い。
また、蝦夷・隼人・熊襲は、いずれも野生動物を冠する文字で表現されている。これは、蝦夷の「蝦」は水棲生物の「水」、隼人は文字通り鳥であるから「空」、熊襲は陸上動物の「陸」をそれぞれ意味している―とする説がある。つまり、この三民族の当て字は、水・空・陸の世界構成要素を全てを天皇が支配したという権力神話的な意味が込められていたのではないかと言うのだ。この説からも、大和の侵略的側面が見てとれる。
一方、これら地域定住型で国家らしきものを形成していた民族とは別に、
各地に散見された民族もいた。「国樔人」(『日本書紀』の『応神紀』に記載)、「土蜘蛛」「佐伯」(『常陸国風土記』に記載)などがそれである。
いずれも、大和とは異種の文化圏を持ち、山に住んでいた非稲作(特に水田)民らしい。これらの諸族も失われた民であり、実体はよく分からない。
このように、古代日本には多種多様の民族が併存していたのである。中でも、朝廷に対する最大級の抵抗闘争を繰り広げていたのが蝦夷であった。
● 征夷政策と蝦夷の絶滅
六世紀頃までは、蝦夷の一部は大和と属国関係を結び、平和的交易も行っていた。しかし六四五年に「大化の改新」が起き、六五八年には阿倍比羅夫らによる蝦夷征伐(征夷)が行われる。さらに、八世紀に律令国家が成立するに至り、大和は蝦夷に対する侵略政策を飛躍的に強化していく。差別的待遇(奴隷的使役)や領土侵略(村の焼き討ち)などに対して蝦夷の諸族の不満が高まり、ついに武装蜂起が起きるようになる。一方、国境では蝦夷側の亡命者や難民が相次いで流入して来た。これに対し、律令国家は、「城柵」を東北各地に設置し、侵略の前線基地と出張官庁を兼ねた業務を行わせた。七三七年には要所である多賀柵(宮城県多賀城市)が築かれた。これが七八〇年には多賀城となる。
七七四年律令国家は、ついに二万七千人の大軍を派兵して征夷の大戦争を開始した。以降、八一一年の沈静化に至るまで三十八年間もの間、大和対蝦夷の戦争は続いた。当初は、蝦夷の騎馬を駆使したゲリラ戦術に壊滅的打撃を受けていた征夷軍であったが、七九四年の十万人の大軍を派兵した掃討作戦などにより攻勢に転じ、勝利を手中にした。この結果、日高見国周辺(現・岩手県)の蝦夷は滅亡の道を余儀なくされたのである。
当然だが、蝦夷の戦力や人口は小規模であった。徹底抗戦の意志と巧みな戦略抜きに、戦闘の長期継続は不可能であった。この史実から蝦夷の優秀な組織力や戦闘力を伺い知ることが出来る。三十八年戦争を闘った蝦夷を指揮していた者は「アテルイ」という名であった。八〇二年、アテルイは大和の和平勧告に応じて一族五〇名と共に生命を保証された捕虜として入京したが、だまし討ちに合って河内で斬り殺された。当時の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、後に「征夷の英雄」として語り草になっている。
更に時代が下り、平安時代になると安倍氏が東北一円を支配し、ついには朝廷軍と闘って勝つという「前九年の役(一〇五一~六二)」が起きる。安倍頼時は一時和平に応じたが、息子の貞任・宗任兄弟は再び反乱を起こし、一〇六二年源頼義に討たれるまで抗戦を続けた。
さらにその後、安倍氏と縁故関係にある清原氏が勢力を伸ばし、一族間の闘争が激化し「後三年の役(一〇八三~八七)」が起きた。源義家がこれに介入して鎮圧したことから、源氏の東北支配が始まったと言われる。この安倍氏・清原氏が蝦夷の末裔と言われる。この事件以降、蝦夷の影は歴史から姿を消してしまう。
このように、蝦夷は一貫して「伏わぬ民」であった。大和(日本)の他民族侵略=単一民族化への衝動は、この蝦夷征伐に端を発し、近世史の蝦夷(アイヌ)地侵略、琉球(沖縄)処分、更には現代史の朝鮮・中国侵略と触手を広げて行くのである。
作中、蝦夷の長老が「朝廷との戦に破れて五百年余」と語るシーンがある。室町時代という設定から逆算すると、その戦とは「前九年・後三年の役」のことを示すと思われる。アシタカは安倍氏か清原氏の末裔か、あるいはそれに加勢した部族の末裔なのかも知れない。
● 縄文人の末裔としての蝦夷
蝦夷の起源を縄文文化を引き継ぐ民族とする説は多い。
狩猟と採集を主軸とした縄文文化(農耕の可能性も指摘されている)は、朝鮮からの渡来人たちの持たらした稲作を中心とする弥生文化にとって代わられた。それは異民族支配によって急激に成された文化の転換であった。安定した食料によって人口は爆発的に増え、西日本には豪族が集結して国家が出来、その勢力圏を拡大した。縄文文化は野蛮で遅れた文化として屈服と同化を迫られ、その文化圏は北や南に追いやられてしまった。つまり、隼人・熊襲・蝦夷ら山民の平定は、渡来人による縄文人弾圧の歴史であったとする説である。そして、弥生文化圏が日本を制圧していくのである。
これを裏付ける事実として、北端のアイヌと南端の琉球には今尚、縄文文化と共通するアニミズム信仰や狩猟・漁労・採集の風習(特にアイヌは非水田農耕文化が主流であった)が残されていることがしばしば挙げられている。彼らは現代史にあっても独自の文化圏を持つがゆえに、依然として日本政府の差別政策にさらされている民族であることも不変なのだ。
この縄文文化と弥生文化の差異は、各地の遺跡で発掘されている人骨などから人類学的にも証明されている。顔の形では、縄文人系は堀が深く鼻筋が通っている。これは「古モンゴロイド」と言われ、亜熱帯の東南アジアによく見られる。弥生人系は、長円型の輪郭で一重瞼、低く丸い鼻を持つ。これは、寒冷地に対応した「新モンゴロイド」と言われ朝鮮・モンゴル・中国によく見られる。日本人には、この二種が混在していると言われている。二千余年に及ぶ混血が進んだ現在でも、「古モンゴロイド」系の顔を持つ人々が関東・東北地方、「新モンゴロイド」系の人が関西・中国地方に多いと言われる。他にも体毛の薄(新)・濃(古)、耳垢の乾(新)・湿(古)など様々な特徴が挙げられる。
蝦夷の起源については、有力なアイヌ説から北方渡来人説、白人説まで様々あるが、その生活形態や遺跡などから判断して、縄文人の末裔である可能性が高い。誇り高き山の民、原日本人と言えるかも知れない。
主人公・アシタカは、作中で勇猛果敢な正義漢として描かれる。彼は、縄文人の末裔であるが故に、大和人が失った自然崇拝に長け、驚異的な体力・知力を発揮出来るのではないか。そこには、宮崎監督の失われた縄文文化人への熱い思いが伺える。
また、「毛人」と言われたように、蝦夷の男性は長い髭をたくわえた者が多かった。これはアイヌ文化とも共通している。作中の男たちも長い髭を生やしている者が多く見られる。アシタカの眉も濃い。
● 蝦夷の王権
縄文時代には、巨大権力はなかった。弥生時代において、西日本から急激に権力の集中が起きるのである。巨大な方形周溝墓の建造、大量の甕棺製造など、王の権力を示す墓作りのために多くの森林が姿を消した。森林が残っていた地域では木棺を使用したと言われる。
続く古墳時代には、前方後円墳に代表される巨大墓建造が各地で行われる。しかし、それは関東地方が東端で、東北地方には巨大墓が作られなかったのである。
アシタカは、ある部族の王(族長)の子息と言われる。しかし、蝦夷には王はいなかったと言われている。それは、巨大墓や部族抗争を示す武器類が発掘されていないからである。つまり、朝廷や豪族のように巨大な権力を公使する王がいなかったと思われる。小さな部族による自給自足の共同社会であったのだ。
王(族長)は信頼を得ていたであろうが、民衆と同じように貧しかった。他人の搾取による富の集積が行われなかったために、王と民衆の差別化が起きず、権力をめぐる血生臭い抗争も起きなかったのであろう。アイヌにも巨大な王権はなかったと言う。
作中のアシタカの村も、巫女や長老による合議制社会と思われ、絶対権力者は見当たらない。アシタカは王なき国の王子だったと言うべきか。
それは、漫画版『風の谷のナウシカ』のラストで、王政を廃止してトルメキア国の指導者となったと伝えられる女傑・クシャナにも通じる思想である。
● 隠れ里と椀貸伝説
アシタカは「隠れ里」の村に住んでいる。「隠れ里」とは何か。
古来、人間が到達出来ない深山の奥地や、水底にあると伝えられる異世界は「隠れ里」として伝えられて来た。
人寄せで多くの椀が必要な時に、池や淵に行って頼むと貸してくれるという「椀貸伝説」は全国にある。貸し主は不明なままか、龍神、蛇などの水神の場合が多い。隠れ里から取って来た椀を持っていると幸福になるという伝説もある。『浦島太郎』の竜宮城も、この類型である。
近世には、次のような隠れ里の記録があると言う。「山奥から機織りの音が聞こえたり、川の上流から米のとぎ汁や椀が流れて来て、その存在を知った」、あるいは「狩りに出かけて偶然見つけた」など。いずれも、再び行こうとしてもたどり着けないという例が多い。
隠れ里は空想上の地ではなく、実在の村を元にした伝説だとも言われる。
それは平家の落人の末裔であるとか、縄文時代の末裔たる山民であったなど、諸説ある。山形県と新潟県の県境、岩舟郡朝日村奥三面はかつて隠れ里と言われたそうだし、他にも地名に「隠里」と残る地域もあるようだ。
もし、東北地方の辺境のどこかに隠れ里が実在したのであれば、それは「蝦夷の末裔が落ち延びて住んだ村」であった可能性も考えられる。
また、何故か椀にまつわる伝説が多いが、人里では見慣れない特殊な形の椀だったのであろうか。とすれば、アシタカの椀が特殊な形をしているのも、「幸福伝説の元になるような」という描写意味があったのかも知れない。
● アワとヒエ
アシタカの村には石垣で囲われたアワとヒエの段々畑が描かれている。これは、山の急斜面を苦心して開拓した畑であり、平地に住むことのできない虐げられた民であることを感じさせる。おそらく焼畑農業であった筈だ。
粟と稗は、最も歴史の古い雑穀である。この村はアワ・ヒエ、そば・ムギなどの雑穀を主食としていたと思われる。それは稲作伝来以前の照葉樹林文化の典型的な食文化である。
アワやヒエは砕いて臼でつき、餅状にしたものを蒸して食べる(チマキのようなもの)か、粥(シトギと言う)にして食べる。これは、中国中部や北タイ、台湾などの照葉樹林帯に広く分布する調理法である。南九州の五木村でも、一九六〇年代まではソバ・ムギなどと共にアワ・ヒエを食べていたことが確認されている。
なお、作中アシタカがヤックルに与える餌は絵コンテによれば、「ムギ」とあるので、やはりムギの栽培も行っていたのであろう。
● 鹿ト
西村真次氏の著書『万葉集の文化的研究』によれば、「占い」の語源は、ツングース語のトナカイを意味する「Ula」であり、つまり日本では鹿を意味したと言う。中国東部からシベリアに分布した北方騎馬民族ツングース系民族は、古代日本に多大の文化的影響を及ぼしたと言われる。(ツングース系民族が弥生時代に渡来して、大和王朝を築いたとする説もある。)
古代日本には「鹿ト」「太占」と呼ばれる占術があった。鹿の肩甲骨や肋骨の表面を剥いだ上に、火をつけた小枝か焼火箸を突っ込んで、その亀裂を見て占うのである。鹿トは、中国・朝鮮から伝わった亀の甲羅を焼いて占う「亀ト」よりも更に古い歴史を持つと言う。
人里近くの森に棲む鹿は、古代から祭祀と関係が深い。弥生時代に作られた謎の神器・銅鐸にも「鹿紋」と呼ばれる鹿の絵が刻まれている。後述のように、鹿は神として祀られていたのだ。
作中蝦夷の村で、ヒイさまがアシタカを占う際に使うのも鹿角と鹿骨である。火を使わず鉱石や木片と併用して放るという特異な占いだが、これも鹿トの一種(運命判断や方角占いの類か)と思われる。
アシタカは、鹿の骨が示した方角に趣き、鹿の神に逢ったことになる。
● 鉄はなかったのか?
作中の蝦夷の村には、石段作りのアワ・ヒエ畑が描かれている。弓矢の鏃も石製であり、石加工の技術が盛んな風習があると思われる。しかし、これを短絡的に「その風俗には、古のまま、時がとまってしまったかのような(『月刊アニメージュ』九七年四月号)」などと解釈していいのだろうか。
史実に照らせば、蝦夷は高度な鉄加工技術を持っていた。東北地帯の製鉄は、砂鉄ではなく磁鉄鉱を用いたものが盛んであった。中国・朝鮮からの鉄鉱石(近世には「南蛮鉄」と呼ばれた)や加工品された鉄器の輸入も行っていた。
「蕨手刀」と呼ばれた蝦夷特有の内反り型短刀も鉄製であった。アシタカの刀も鉄製ではないか。蝦夷は騎乗して短刀で相手を突く接近戦と、中距離から弓矢で射る戦法が得意であった。その戦力は歩兵十人分に匹敵する強さだと言われていた。
「隠れ里」に住むようになって、鉄とは無縁の生活を余儀なくされた末に石器主流の文化に逆行したのか、あるいは鉄は貴重品として珍重されていて、農具や加工器具にしか使われなかったのか。大木を伐採して組んだ監視櫓などの土木建築、狩猟や農作業、調理、衣料品加工など、いかに自給自足とは言え、その生活水準は鉄器が皆無とは思えない。
また、アシタカの携帯する木椀も、轆轤か彫刻刀などの鉄器で加工されたものと考えた方が自然だ。先代から伝えられたものか、里で秘密裏に交換したものか、いずれにせよ珍品のようだ。漆塗りの赤はアイヌ文化を彷彿とさせる。(椀を携帯する風習は前述のようにブータンにもある。)
いずれにしても、鉛玉=鉄滓を知らないことから、「鍛冶はあっても製鉄技術はない村」と解釈すべきではないか。尤も、人目を忍ぶ目的の「隠れ里」で派手に火を焚く製鉄作業が出来る筈はなく、技術は先祖が放棄(または禁止)したとも考えられる。
● 石の信仰
アシタカが占いを受ける寄合小屋には、壁から突き出た岩石が「御神体」として祭られている。彼らは石を信仰する民族なのだ。
柳田國男氏によれば、石神信仰には石を神の依代・磐座とする信仰と、石そのものに精霊が宿って霊異を示す信仰に二つの系統があると言う。石神は東京の「石神井」の地名に明かなように、「シャグジ」とも呼ばれていた。全国にある石の地蔵が将軍塚と呼ばれることが多いのは「シャグジ」の語源に由来するという説もある。石神や地蔵塚は、土地の境界線、生死の境界線(死者供養)などの「境」の役割があったする説もある。
『日本書紀』の『斉明紀』によれば、六五七年に斉明天皇が蝦夷の使いを「須弥山の像」という石の像を作ってもてなしたとある。その場所は現在の石神遺跡(奈良県)に当たる。仏教的石神を与えることにより、下級民族を教化する意味があったという説があるが、これも「貴賤の境」の意味があったのかも知れない。あるいは、蝦夷に石神信仰が盛んだったのか。なお、作品の舞台となった出雲にも、石神を祀った神社がある。
作中に引きつけて解釈すれば、大和との「境を護る」意味で石神を祀っていたとも考えられるし、金属器に頼らない石の文化そのものを祀っていたのか、あるいは縄文文化的自然信仰の類であったのかも知れない。
「もののけ姫」の基礎知識
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宮崎氏によれば、アシタカは勇者アテルイの部族の末裔であると言う。 ○エボシ御前とタタラ場の人々 人間の政治勢力の第一は、主要な舞台となるタタラ場の製鉄民たちである。エボシ御前率いる通称「エボシタタラ」は、城塞都市のごとき風貌の製鉄・加工