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「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】物語の中の出てくる「架空の人物」の中にある「設定」とそこにある「演出」の妙

2020.02.25 22:00

「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】物語の中の出てくる「架空の人物」の中にある「設定」とそこにある「演出」の妙

 大河ドラマ「麒麟がくる」の話を待たしてみたい。今回は、細川晴元と三好長慶の関係の微妙さと、その中で翻弄される明智光秀や、そのほかの登場人物たちを書いている。ある意味で、「暗殺」などを話をしているということになる。

まあ、まずは、その密談のシーンがあるのだが、SNSなどの反応を見ていると、「あのような杜撰な密談はない」菜というような声を聴く。まあ、もちろん密談を女郎屋など人が多いところでで大声でやるなどというのは、あまりやることではないが、しかし、当時密談というような感覚が少ないというか、自分が最も強いと思っているある意味で、下剋上の領主などは、そのようなことはあまり気にしなかったのではないかという気がするのである。そのように考えれば、少しわきが甘くなっていてもおかしくはない。

その辺がうまく演出されていればよいのである。

もちろんある意味で、彼らが「ドジ」であったというようなことを見ておかなければ、後に「本国寺の変」で明智光秀が寡兵で追い返すというようなことができた「伏線」が書けなかった。もっと言えば、ある意味で光秀がそのようなことを察知する能力があったということと、三好側が、その辺をコントロールできなかったというようなことをこの当時から出していたというような「人間の正室」としての書き方になっていたのは、なかなか面白い。

「現代」の視点から、または「江戸時代の後半」の視点から見れば「ありえない」と思えるようなことも、当時では十分に「ありえる」内容であり、その辺を「現代人の常識で測る」ということをしながら見ていては全く面白くない。単純い「それらが最もできていた武将である徳川家康が天下を取ることができた」ということでしかなく、それ以外の部分ができなかった人も少なくないのではないか。何らかの欠点があるから、臣従するかあるいは滅びるかということになったわけであり、当然に、天下が獲れたわけではない。その辺をしっかりと見てゆかなければならないのではないか。

「麒麟がくる」長谷川博己「早う入れ」に“キュン死”視聴者続出!門脇麦が明かす駒&光秀の焚き火シーン

 俳優の長谷川博己(42)が主演を務めるNHK大河ドラマ「麒麟がくる」(日曜後8・00)は23日、第6話が放送された。終盤、美濃に帰る途中、主人公・明智光秀(長谷川)と、女優の門脇麦(27)が好演している娘・駒が一夜を明かすシーンに、インターネット上には「キュン死」「胸キュン」の視聴者が続出した。

 大河ドラマ59作目。第29作「太平記」(1991年)を手掛けた名手・池端俊策氏(74)のオリジナル脚本で、智将・明智光秀を大河初の主役に据え、その謎めいた半生にスポットを当てる。物語は1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」だった時代から始まり、それぞれの誕生を丹念に描く。

 第6話は「三好長慶襲撃計画」。京で開かれる連歌会で、時の権力者・細川晴元(国広富之)が、晴元を凌ぐ実力者となろうとしている三好長慶(山路和弘)と松永久秀(吉田鋼太郎)を暗殺しようと計画していることを光秀(長谷川)は知る。将軍・足利義輝(向井理)の治世の下、京の安寧が崩れることを恐れ、三淵藤英(谷原章介)と細川藤孝(眞島秀和)らと協力し、松永らを救う。しかし、光秀は負傷。望月東庵(堺正章)の診療所へ運び込まれ、駒(門脇)と久々の再会を果たす…という展開。

 寺を見つけ、火を焚(た)いて一夜を明かす2人。光秀は「駒殿が気になる。ここへ入らぬか。頼む、入ってくれ。そうでなくては眠れぬ。早う入れ。構わぬ、ここで寝よ」と駒の右肩を抱き、一緒に寝ることに。ネット上には「駒殿キュン死の回」「駒殿と十兵衛殿の焚き火シーンに、こんなに胸キュンするとは思わなかった」「『早う入れ』に、だいぶキュンとしてしまいました」「十兵衛の表情と言葉にテレビの前で倒れた人がかなりいたはず笑#キュン死」「今回は長谷川博己のイケメン度が爆上がりした回。こんなのキュン死にしないわけないよ」などの書き込みが相次いだ。

 これまでも光秀に対する駒の“恋心”は描かれてきたが、体も密着する一気の最接近。門脇は「火を焚くという描写は台本にはなく、監督のアイデアで足された設定でした。揺れながら、だんだんと消えていく炎が駒の心情と、歌とピタリと重なって、あのシーンの空気感を丸ごと包み込んでくれたように思います」と振り返った。

 チーフ演出の大原拓監督は「今と違って、いつでもどこでも何度も会えないのが戦国の世。しかも、思い人と再会するなど、ほぼあり得ない。そうした時代観を背景にしているからこそ、より恋心が募る。そうした思いを抱えた駒が、光秀にドギマギしまくりました。少女のあどけなさと恋する女性の表情を行ったり来たりするのを、門脇さんが巧みに表現してくれて、とても魅力的に、かつキャラクターの幅や奥行きを広げてくれました」と絶賛した。

2/23(日) 20:50配信スポニチアネックス

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200223-00000314-spnannex-ent

 まあ、上記には「現代人の知識で物事を語ってはいけない」、まあ「いけない」というよりは「そのようなことをしてダメ出しをしていても全く面白くはないし、そのようなダメ出しを見ていてもつまらない」としか言いようがないということを書いた。ドラマはあくまでも「ドラマ」であって、それを楽しめばよい。

その「ドラマ特有の楽しみ方」が、「架空人物」である。今回の内容で言えば、望月東庵(堺正章)と駒(門脇麦)であろう。ある意味で「架空の人物」であるから、好きに動くことができるし、また「登場人物を動かすところの隙間を埋めることのできる人」ということになる。

ちなみに、作家の間では、「忍者」を出す時が「ワイルドカード」というような感覚になっている。忍者というのは、ある意味で便利に使える道具でありなおかつ、そのことが歴史に書かれることはないということの使い勝手の良い存在である。主人公が京都にいながら、尾張や岐阜で起きていることを知ることができるのは、忍者がいてそれを報告しているからに他ならないというような感じにしてしまい、また、何か重要人物が突然死することも、病死ではなく、暗殺とすることによってドラマティックに動かすことができる。軍が遅れたり、あるいは、心変わりするというのもそのような忍者を使えば、作品の中ではつじつまが合うのである。

ドラマでは、さすがに忍者の内容を様々に書くことができない。忍者が主役の、例えば真田十勇士や司馬遼太郎作品の梟の城のようなものであれば、それでもよいのかもしれないが、別に、忍者をしっかりと書くようなことはなかなかできない。もちろんそのように言いつつ、実は意外とNHK大河ドラマでは出てきている。「真田丸」では、佐助がいたし、過去にも曾呂利新左エ門など、様々な忍者が出てきてドラマのつじつまを合わせているのである。

さて今回は、その忍者以上にうまく出てきているのが「駒」であろう。ある意味で「女性」であり、また「庶民」そして「医者(どこにでも入り込める)」という存在である。その存在が、光秀とであり、そして親密になるということをうまく表現している。

寺を見つけ、火を焚(た)いて一夜を明かす2人。光秀は「駒殿が気になる。ここへ入らぬか。頼む、入ってくれ。そうでなくては眠れぬ。早う入れ。構わぬ、ここで寝よ」と駒の右肩を抱き、一緒に寝ることに。<上記より抜粋>

まあ、この「二人の接近」がうまく書かれている。ある意味で「好意を寄せあった二人が、身分の差などがあって、なかなか本音を出せない状態で、その本音を出す瞬間をうまく描いた」ということであろうが、それを見ている人から考えれば、なかなか面白いうということになる。

光秀には、正室との間に子供が7人いたことになっているが、その正室煕子の前に妻(妾)と子供がいたとされている。私の小説の中ではそれを出しているのであるが、そのような存在がいることが、話の幅を大きくするのである。

この「駒」がそのような存在になるのかどうかは別にして、ある意味で「忍者」に近いワイルドカードなのではないか。その辺をうまく使って話の幅を持たせ、そして、家族関係などまでうまく書いているのは、なかなか面白い。

次も期待である。