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宗淵寺/願興寺

高知・桂浜〜安芸市(井ノ口・土居) 拾い歩き

2020.03.02 04:40

高知市内での所用を終えてから向かったのは、高知の代表的な景勝地、桂浜。

ベタな観光地巡りをしたかったわけではなく、

以前、妻から聞かされていた「九死に一生」の話を踏まえて、「桂浜の竜王さまにお礼参りでも」と思って行ったのです。


ところが、後日にこのSNSの投稿を見た義母から伝えられた、衝撃の事実…

えっ⁉️桂浜じゃないっ❓

中村は現在の四万十市。義母の故郷で、桂浜からは車で西へおよそ2時間の場所です。

ビックリして妻に訊ねてみると、

「あれー?そうだっけ。覚えてない。でも、中村も桂浜も同じ高知でしょ?高知の海で溺れたから、間違ってないでしょ。」

と、超テキトーな答え。

人の記憶は、都合よく書き換えられるものなのです。



勝手に良いことをした気になっていた桂浜から😞、続いてもう一つの目的地、安芸へ。




少し前に、ある先輩の僧侶の方に高知に行くことを話したら、

「安芸市に、閑慶院という三菱岩崎家の菩提寺があって、法類がそこに住職として入った」

と聞かせてくれました。


(三菱)岩崎家と言えば、永平寺の朝課でも開基の波多野家などと並んで先祖供養の読み込みがされており、また仏殿での年分行事でも「岩崎家檀越諷経」が厳修されていましたが、私自身がこれまで永平寺と岩崎家の関係について伝え聞いたり、興味を持って学びを深めることがありませんでした。

創業者の岩崎弥太郎についても、土佐藩士の出自くらいの知識しかなかったのですが、先輩のお話を聞いて少し調べてみたら、現在の閑慶院の本堂や山門といった主な伽藍(旧鐘楼も)は、岩崎家の寄進によるものとありました。またネットでは「現在の永平寺の仏殿は岩崎弥太郎の寄進で建てられ、仏殿には今でも岩崎弥太郎の位牌が祀られている」という情報もチラホラ。(これについては後述)


この時点では、永平寺で修行経験がありながら寡聞であったことを恥ずかしく思いながら、せっかくの機会なので岩崎弥太郎の出身地、安芸市の旧井ノ口村を見てみたいと思った次第です。


桂浜を経ったのが夕方の5時前。そこから安芸市の閑慶院までは、車でおよそ1時間。

日の入りにギリギリ間に合うか間に合わないかの時間でしたが、あわよくば昏鐘の音が聞けるかもしれないと、淡い期待をしつつ車を走らせました。


途中、阪神タイガース(2軍)が春季キャンプ中の安芸市営球場の前を通りましたが、生粋のカープファンの私は一顧だにせずとっとと素通り。


目的地の閑慶院さんに着いたのは5時45分ごろ。

進入路が狭かったので、少し離れた田んぼの脇に車を置いて、日没に間に合えばと、走ってお寺まで行きましたが、

…すでに閉門。すっかり夜の支度が済んだ後でした。

もう辺りも薄暗くなっていましたが、画像だと明るく見えます。この辺はさすが、新しく買い替えたiPhone11。暗所撮影の性能が高いです。


境内には入れなかったので、薄暗い中でお寺の周辺を撮影しながらウロウロ。もはや不審者です。

閑慶院のシンボルツリー、樹齢600年の椋の木。幹の中には小祠がありました。椋の木自体が信仰の対象になってるようですね。

童謡『夕やけ小やけ』の歌碑。

元々は作詞の野口雨紅の実家である、東京都八王子市の宮尾神社にあったそうですが、閑慶院の総代さんがこの歌詞に感動し、許可を得て宮尾神社の歌碑の妹碑として建立されたそうです。これを見ながら昏鐘でも聴けたら最高だったんですが。

岩崎弥太郎と阪神タイガースで有名な安芸市ですが、どうやら街おこしの基幹は、童謡。

大正から昭和にかけて多くの楽曲を残した作曲家・弘田龍太郎が安芸市の出身だそうで、これにあやかってのことみたいですね。

閑慶院の「夕やけ小やけ」の歌碑建立も、その一環。弘田の作曲でも何でもないけど。


もう6時はとうに過ぎていましたが、さっきここに来るまでの道路案内にも出てきたワード、「野良時計」っていうのが何なのかも気になります。


でもその前に、岩崎弥太郎の生家にも行かなきゃ。

辺りはどんどん暗くなっていきます。

急げっ❗️


閑慶院から3km弱の場所にある、岩崎弥太郎の生家跡。当然見学は…

できるわけありません。営業時間は午後5時までです。

お世辞にも繁華とは言えない寒村、しかも岩崎家は生活のために郷士株を売った「地下浪人」という下位の身分だったと言います。

そこから日本有数の政商となった弥太郎の立志伝に、もう少し思いを馳せていたかったのですが、加速度的に日が落ちていきます。

どうせ生家の中も見れないので、周囲を5分程度散策した後に、そそくさと野良時計へ。

ナビで経路を検索したら、「チクタク通り」という、おそらく野良時計にあやかった洒落た名前の通りでしょうが、実際の「チクタク通り」は…

こんな感じ。チクタク感はあまりないですね。むしろ第一産業感。

これが野良時計。「松江シティホテル」みたいな感じでしょうか。

この地区の地主の家につけられたもので、時計がまだ普及していない明治時代、住民が農作業中に時間を確認していたそうです。それで「野良時計」なんですね。周囲の第一産業感も納得です。

近くの駐車場に、弘田龍太郎作曲の『鯉のぼり』の曲碑がありました。

でも歌詞を見ると、私のよく知る「屋根より高い〜♪」の歌い出しではありません。

「あれっ?これ、知らないかも」

と、とっさに音声案内のボタンをポチしてしまいました。


「い〜ら〜(か〜の)」と出だしの一小節を聴いて、「あー、やっぱ知ってるわ」となったので、途中で音声を中断して早くホテルに行きたかったのですが、どうも最後まで強制的に音声が流れるシステムのようで。

でも途中でいなくなったら、もしこの夕闇に紛れて誰かが見ていて、島根ナンバーの不義理者が、音声ボタン押し逃げした、という負の記憶を残すことになります。ちゃんと最後まで聞いた体にしなければ。


それから、およそ7分間、人っ子一人いない日没サスペンデットの駐車場で、一人で案内音声を聞く羽目に。

暗いし、音でかいし。

放置されてるみたいでとっても恥い…。早く終わってごせ…。



さて、以下も桂浜の一件同様の後日談、人の思い込みについての教訓を得た話です。


「岩崎弥太郎が永平寺の仏殿を寄進した」「仏殿で弥太郎が祀られている」という話。これほどのパワーワードを、修行中に微塵も聞いたことがないので、改めて調べてみました。


まず、岩崎弥太郎の生家が閑慶院(曹洞宗)の檀信徒であったのことは間違いありませんが、岩崎家の寄進による伽藍の落慶は明治34年だそうです。

しかし弥太郎の没年は明治18年。つまり弥太郎自身ではなく、一族による寄進だということが分かります。


さらに、現存する永平寺の仏殿が建立されたのは、道元禅師650回大遠忌の際、つまり明治35年です。

これで、「岩崎弥太郎が永平寺の仏殿を寄進した」という命題が成立しないことになります。

次に「永平寺の仏殿で弥太郎が祀られている」件。

事前に確定している情報は、現在でも永平寺で岩崎家の先祖供養が行われていること、つまり弥太郎個人の供養とは限定していない事実です。


そこでネット検索しながら、あれこれ調べたところ、「シャディは一冊の百貨店♪」で有名なギフト販売会社『シャディ株式会社』が運営する「死の総合研究所」という死生学に関する研究や情報をまとめたサイトの「明治葬祭史」というページに、次のような記載がありました。

「弥太郎は神葬祭」というワードにまず軽く驚きました。

さらには、なんと5ちゃんねるに「岩崎家」というスレッドがあり、そこに次のような書き込みがあるのを発見。

「弥太郎系は真言宗」というワードは、上記の神葬祭とは矛盾しなくもないですが、それより重大な要素は、どうやら弥太郎自身は曹洞宗とはさほど有縁ではなさそうだ、ということです。


そこで改めて「弥之助系は曹洞宗」というワードに注目。

調べてみると、この「弥之助」とは岩崎弥太郎の実弟で、弥太郎の跡を継いで三菱財閥の2代目の総帥となった実業家ということが分かりました。

左が弥太郎、右が弥之助です。


いわゆる「三菱岩崎家」というのは、弥太郎の系統と弥之助の系統からなり、両家による双頭体制が敷かれていたようです。


この岩崎弥之助という人物について、私は全く知らなかったのですが、試しに評伝を読んでみたところ、弥太郎の影には隠れていますが、むしろこの優秀な2代目の功績によって、三菱財閥の基礎を築かれたことが分かりました。

また、豪放磊落だった兄の弥太郎と正反対で、弥之助は「紳士の標本」と評されるほど、温和で思慮深い性格だったそうです。

そして、信心深かった実母・美和の影響を強く受け、先祖供養に篤かったのは弥之助の方。

既に鬼籍にあった母兄の菩提を弔うために、当時の閑慶院や永平寺に多額の喜捨をしたのは、おそらくこの弥之助でしょう。


さらに興味深かったのは、これは別の資料にあった事績ですが、弥之助の孫に当たる岩崎八重子(旭硝子株式会社〈現在のAGC〉社長の創業者 岩崎俊弥の長女になる)という方がおられ、病弱で26歳の若さで亡くなりますが、生前には原田祖岳老師に師事して参禅精進され、やがて大悟したことを原田老師にも認可されました。しかし、その時すでに病床にあり、書簡でそのやりとりをしたと言います。

原田祖岳老師の肖像。Wikipediaより拝借。



まさか、永平寺の仏殿のことを調べていて、昭和の正信論争にまで話が及ぶとは思いませんでしたが、一族にこういう篤信者がいることからも、永平寺で供養されている岩崎家とは、弥之助系を中心とした親縁と見なして間違いないと思われます。


もっとも、もし閑慶院で直接お話が聞けたら、すぐに分かった話かもしれませんが。


私も閑慶院に行くまでは「三菱岩崎家と言えば弥太郎」と思い込んでおり、なんなら生家跡に建つ弥太郎の像を見て、修行時代の思い出に耽りそうになっていました。ネットに飛び交う誤情報も、そんな思い込みによるものでしょう。


「歌手の岩崎」と聞くとすぐに姉・宏美を思いつきますが、妹・良美の歌唱力も甲乙つけがたい上に、むしろ楽曲としては「タッチ」の方がポピュラー、みたいな話でしょうか?



人間は思い込み、記憶をもすり替える。そんな大仰な教訓を得た高知の拾い歩きは、さらに中村編へと続く…