言葉
前ブログの最後に触れた中居正広氏の言葉について、引き続き思う事がある。
目にした映像で中居氏は、幾度も「「1%から99%の中で」と表現していた。
それを綴るに当たって確認すべく追った当時の web上では
「間で」とまとめた記事も散見し、そこに少し引っかかりを感じた。
ただ目にしたのはいずれも大手のサイトばかりであり
どちらであっても私が書きたい本筋とは少し異なる部分だったので、深追いはしていない。
しかし、著名人とありその後もあちこちで取り上げていたので聞くともなしに聞いていると
中居氏の発言は全て「中で」の方のみ。
しかも「間」は0から100の方でと、使い分けている。
深い検証はしていないが
一部のメディアは一般的に使われる 「間」を、要約するに当たって使用したのだろう。
だが「存在」に対する意味合いを濃く感じるのは
" 間 " より " 中 " の方だと思う。
あの場で言えば再結成の可能性など。
中居氏は二つを敢えて使い分け
そのような含みも持って発したように、私は受け止めている。
考えを巡らせた展開とその人柄によって概ね良い反響を得た会見となったようでもあり
私が提示しているような部分について触れられる事はなさそうだ。
しかし、別の誰かがシビアな意味合いを持って使い分けした場合
それらのメディアが正しく対応できるのか考えるに、甚だ心許ない。
また私が熱心に再結成を望む側だとしたら、
その可能性に繋がる言葉は正しく伝えて欲しいと願うだろう。
肩入れしている対象に関し、響くものを敏感に嗅ぎ取ったり
たとえネガティブな要素を含んでいる情報でも
それが真実であるなら得たいと思うのが、人というものではないか。
メディアには言葉の端々まで神経を研ぎ澄ます事が本来望まれる。
そしてプライドを持って仕事をするとは、そういう事だと思う。
プライドなんて、と吐き捨てるような過酷な現状にあるかもしれないが
その職業を選び取っているなら やはり責務を果たして欲しい。
言葉メインの仕事である重みを
しっかりと自覚して欲しいのだ。
一事が万事 そんな世の中。
正しく伝わってくる事が期待できない由々しき現状に
私たちは生きている。
メディアに対して懐疑的な思いを より深めたのは
あの中国杯の報道からだ。
リアルタイムで目にした胸がつぶれそうな出来事の後
ただただ情報を追い求めたあの時
弄ぶかのような情報の切り取り方の罪深さを、まざまざと体感した。
数年たった今、その枝葉は様々な方向に広がりつつあり
不気味な様相を呈している。
疑心暗鬼な姿勢を頑なにせざるを得ない。
そしてずっとずっと気になっている
ー 惨敗 ー という、見出しなどの言葉。
報道でそういった刃のような言葉が並ぶたび不思議でならない。
競技でトップにならなかったからといって
なぜ当たり前のようにそういった表現にするのだろう。
安易に多用するその神経がわからない。
想像力が欠落しているのか、職務上やむなく使っているのか。
いずれにしても因果は巡っていくように思う。
長文になってしまうけれど、未だ消えない思いを出し切らせて頂きたい。
昨年末、全日本の試合結果を伝える際
メインの男性キャスターは
「全日本というのは独特の緊張感を生むんでしょうね」
とだけコメントした。
アシスタントの女性二人も頷いてすぐ別の話題へ。
触れたのはそれのみだ。
トップ三人の結果について報じていたわけだが
1・3位は嬉しい戦績となったはずで
実際二人とも喜びのコメントをしていた。
男性キャスターは、全般に対しそつのない言葉として選んだのかもしれない。
間違いでもないだろう。
だが、実際には何か月経ってもくどくどと書き立てる
私のような人間もいるのだ。
それは枠が定まったスポーツ番組の担当であれば
少しでも下調べをして血が通った言葉が出てくる事を期待しているから。
両脇に座った二人も同調するのが仕事ではないだろう。
4、5秒で補足できる事はあり、それによって受け止め方は大きく違ってくる筈だ。
未だ華を添えるだけの存在としてあっという間にその場を追われるのか、
次のステージに進めるかは
そういった積み重ねで決まっていくだろう。
もしそれが局サイドの姿勢によるものなら
局自体が淘汰されていく事になるとも思うのだが。
そのような釈然としない対応であれば
感情を交えないAIで数値と結果だけを報じれば良いと断じてしまいそうだ。
TV離れと嘆く前に、すべき事はある。
大体に於いてそうなんだろうと、諦められてしまう前に。
そう。
受け手側として諦めてはいないのだ。
しつこく苦情を述べ立てるのは " 旧 " と称されるメディアに対して
期待を捨ててはいないエールでもある。
変化が見える兆しも僅かながら伝わってきているが
他勢力の動きも激しく、苦悩しながらも変革は進むのだろうか。
あまりにも目まぐるしい、時代の大きな波の中
強く、正しく付き進んでいこうとするのは何であれ難しい。
羽生結弦という人が世界中の人を惹き込み、捉えて離さないのは
そういった姿勢を変える事なく
向上し続けるという部分も大きいだろう。
一方で、こんな風に何かを言えばまず自身に跳ね返り
更に自分を律しなければならない。
一生は修行だ。
そして
ー 修行 ーと言えば、私の場合
まずSEIMEIの衣装を初めて描いた時の事を真っ先に思い出す。
その文様や数え切れない大小様々なビジューを
そのまま描こうとするのは無謀極まりない。
先の見えない作業と、膨らんでいくデータ量に頭を抱え
あまりに未熟な描き手の自分は途方に暮れ
修行のようだとリアルにつぶやいた。
後に、昆虫の姿を超細密に描く著名な方も
同じように修行だと語っていたのを耳にした時
こんな方でさえと、深く感じ入ったりもしていた。
今回は流れであまり描き込まないまま終わってしまったそれらだが
これを描くにあたり覚悟を決め、一方でちょっとわくわくもしていた。
実際描き込んでいたとしたら
どんな姿勢をとっても肩などの痛みから逃れられない状況に
苦しんでいたと思うけれど。
そして新たな作は、やはり
ー SEIMEI ー
あの差し色は絶妙と思う。
プログラム自体が、勿論であり。
それにしてもだ。
別に書いてもいいと思うんだけれど
ジャンプがうまくいかなかった時
ええぃ はっきり書いてしまうと転んだ時、
羽生さんは繰り返し観たくなってしまうほどきれいに繋げる。
取り乱す事なく脚で美しい放物線を描き
減点とは別に、加点して欲しいくらいだ。
シェイの言葉が脳裏をかすめる。
ー どんな状況で転んでも、演技の一部のように振舞う ー
きっと他の指導者も同じ様な言葉を投げ掛けているだろうが
実際のところ動揺しないで実行するのは至難のはず。
彼は嫌がるだろうけれど
その美しい軌跡を、
それを描く彼の姿を、
心の中で謝りながら
私は飽かずリピートするのだった。