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株式会社 陽雄

温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第38回】 E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書,1962年)

2020.02.28 08:00

「645年大化の改新」。ゴロ合わせでの覚え方は世代によって違うようだ。私が小学生の時は「悪い虫殺せ(ムシコロセ=645)大化の改新」だった(私の親は「蒸米(ムシゴメ=645)炊いて大化の改新」で覚えたといっていた)。645年に大化の改新が起きたのは歴史的事実であり、これがひっくり返ることはまずないだろう。だからといって事実は事実であって、はいおしまいとできないことに実は歴史の難しさがある。


E・H・カー(1892~1982)なるイギリス生まれで外交官出身の歴史家がいた。第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期などを理想主義と現実主義の交代の観点からアプローチした「危機の二十年」の著作で知られていることが多い。カーが書いたもうひとつの主著書に「歴史とは何か」(岩波新書)がある。学生の頃に読んで以来ほったらかしていたが久しぶりに本棚から取り出して読み返してみた。この本は1961年にケンブリッジ大学で連続講演を行ったものをベースにまとめられている。


カーの遺した言葉でよく引用される「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」は、この本の第1章(第1回講演)の最後の締めの言葉だ。この言葉はいうなれば歴史が持つ可能性と限界を示している。たとえば、「645年大化の改新」があったことは歴史的事実だ。しかし、幾万とある歴史の事象のなかで645年大化の改新をピックアップして歴史書に記録された時点で、歴史家たちがそれを大きな事件として認識していることになり、そこには「必然的に選択的」な要素が含まれているという。つまりは、「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいているけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である」ものを選択したことになる。歴史家はときにこうした前提を忘れて独立して客観的な歴史的事実なるものを信じようとしてもそれは誤謬を含むものに過ぎないのであり、自然科学のように客観に徹しているはずと信じられる代物ではないとした。


何回目かの講演でカーは歴史の研究は原因の研究だと喝破する。歴史家は常に「なぜ」かを問い続けて解答を得る可能性がある限り休むことはない性質を持つとする。そして原因と結果という因果関係のなかで、多様化と単純化を通して仕事をしていくものだという。そんな粘り強い営みについてこんなたとえ話(実例)で象徴的に論じている。


「・・・ジョーンズがあるパーティでいつもの分量を越えてアルコールを飲んでの帰途、ブレーキがいかれかかった自動車に乗り、見透しが全く利かぬブラインド・コーナーで、その角の店で煙草を買おうとして道路を横断していたロビンソンを引き倒して殺してしまいました。混乱が片付いてから、私たちは―例えば、警察署―に集まって、この事件の原因を調査することになりました。これは運転手が半ば酩酊状態にあったせいでしょうか。この場合は、刑事事件になるでしよう。それとも、いかれたブレーキのせいでしょうか。この場合は、つい一週間にオーバーホールした修理屋に何か言うべきでしょう。それとも、ブラインド・コーナーのせいでしょうか。この場合は、道路局の注意を喚起すべきでしょう。われわれがこの実際問題を議論している部屋へ二人の世に知られた紳士、お名前は申し上げますまい、が飛び込んできて、ロビンソンが煙草を切らさなかったら、彼は道路を横断しなかったであろうし、殺されなかったであろう、したがって、ロビンソンの煙草への欲求が彼の死の原因である、この原因を忘れた調査はすべての浪費であり、そこから導き出された結論はすべて無意味であり無益である、と滔々たる雄弁をもってわれわれに向かって話始めました。それなら、われわれはどうすればよいのでしょうか。われわれは流れるような雄弁を辛うじて遮って、この二人の訪問者を鄭重に、しかし、力を込めて扉口へ押して行き、この人たちを二度と入れてはいけないと、と門衛に命じて、われわれの調査を続けるでしょう。それにしても、われわれはこの闖入者に対してどんな答えを持っているのでしょうか。もちろん、愛煙家であったから、ロビンソンは殺されたのです。・・・いずれも申し分なく真実であり、申し分なく論理的であります。しかし・・これら・・の流儀は歴史の流儀ではありません」(歴史における因果関係より)


この文脈どこか笑ってしまう滑稽な話だが、この構造と内容は歴史を扱うことについて本質と過程を示唆しており、笑ってすませてしまうわけにもいかない。この「煙草への欲求が彼の死の原因」という構造は、いうなれば、「そもそもさ・・・が原因だ」などのシンプルかつ単線的なロジックであり、他の要因や原因を排除したままに結論らしきものを導き出すような議論は実のところ世間にはかなり溢れている。もちろん論理的には意味は通じるだろうし、この言葉を吐いた当人は満足するだろうが、だが、歴史をあつかう側からはとても同じテーブルでお話はできませんということだ。いろいろなシコリが残っている近現代史などを議論するときなどは慎重かつ注意を要する。いつしか感情的になり、たとえば、「そもそも、戦争を起こしたことが破滅の原因だ」「そもそも、軍備を欲したのが戦争の原因だ」などからはじまり、だから「軍備を有さないのことを結論とする」などもそうかもしれない(これが歴史から教訓を学ぶことのすべてだとは思えないのだ)。


もちろん、「そもそも・・」がアプローチの一つとして間違っているとは思わない。ただ、それが絶対ではないし何も解決しないことも知るべきで、歴史はその点、複数の因果とアプローチ、そして解釈を用意してくれる。さて、少し話は飛ぶが、字数制限のあるSNSなどで誰でも好きなことを発信できる自由な時代だ。もちろんこのこと自体は良い。ただ、字数制限があることが、発信する側もさほど熟慮しないままに「そもそも・・」だけの発信で短絡的に終わり、それが積み重なって世論をつくり、そして歴史となっていくならば、その第一歩としてあまり健全とも思えないのだ。因果関係をじっくり考えて整理し解釈するのは骨が折れるがやはり大切な作業だ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。