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「宇田川源流 日本万歳!」 コロナウイルスを跳ね返す「日本の伝統」はすべて神事の由来であるからだ

2020.03.01 22:00

「宇田川源流 日本万歳!」 コロナウイルスを跳ね返す「日本の伝統」はすべて神事の由来であるからだ

 毎週月曜日は「日本万歳!」をお送りしている。実際に日本のすばらしさは徐々に多くの人に伝わっていると思うが、それでも、日本人の多くは、いつの間にか外国にかぶれてしまっていて、何か危機があるとすぐに責任転嫁してしまう。

日本人は本来「自分で何とかする」ということが常に基本であったはずだ。自分でというよりは「自分たちで」という基本があり、その基本を逸脱してしまったときに「多くの人の助け」がありまた「神頼み」があるのである。

なぜか最近ではなんでも政府や他人に文句を言い、自分の責任や役割を全うしない人が増えているのではないか。何とも大陸や半島の人のような物言いに、あまりにも日本人として情けなさを感じる。

あの3・11の後、多くの外国人が驚愕したのは、多くの死者がありそして資産も家も場合によっては家族も失ってしまった人々が、その日の生活のために何かでことをしよう、一人でも助けようとして、被災者自身が自分たちの町を動き、そして、人々を助けた姿ではなかったか。

「自分たちでできることをする」というのは、今回のコロナウイルス禍の中でも同じではないだろうか。

私の思うところ、そもそも「子は親が育てる」というのは当たり前のことではないか。たぶん、保育園ばかりに出していては、子供が大きくなった時に、親との思い出よりも、保育園の先生との思い出が大きくなってしまう。

そういえば、ショートショートでおなじみの星新一先生の作品の中に「遠大な計画」というものがある。あるメーカーが、保育器を作り、子供が生まれた人に無料で配布した。そして数十年後、その保育器の中で響いていた声と同じで「○○を買いなさい」とテレビで声が流れる。そうすると「保育器の中での声」のなつかしさで、みんながその商品を買うというのである。

様々な家庭の在り方があっていいと思うが、今回のような「非常事態」において、親との間の絆や家族の在り方というものをしっかりと考える機会があってもよいのではないか。それが日本なのではないかという気がする。


日本の「はだか祭り」に驚愕、新型コロナウイルスですら「止めることはできない」=中国

 世界各地には民族それぞれの文化があり、多少なりとも独特の変わった習慣があるものだ。日本の「はだか祭り」は、中国人から見ると非常に変わった習慣に映るようだ。中国メディアの今日頭条は20日、「はだか祭り」について紹介する記事を掲載した。新型コロナウイルスですら「止めることはできない祭りのようだ」と伝えている。

 記事は、「はだか祭り」は岡山県で毎年2月に行われており、約1万人が参加すると紹介。岡山県の人口は192万人ちょっとで、この祭りは男性しか参加せず、見学者は含めない人数なので、「いかにこの祭りが人気であるかが分かる」としている。

 そして、「はだか祭り」は日本三大奇祭として有名で、500年以上の歴史があると紹介。ふんどしを締めただけのほぼ全裸の男性たちが2本の「宝木」をめぐって激しい争奪戦を繰り広げるお祭りで、宝木を手にした人は「福男」と呼ばれて1年間の福を得ることができるのだと伝えた。

 それで記事は、「500年以上も続けていることで、深く根差した習慣であり、これは中国人が春節(旧正月)に餃子を食べるのと同じようなものだ」と分析。そのため何が何でも参加するものだが、「疫病が流行している状況では、健康問題に注意すべきであり、このような大規模なイベントはより注意をすべきだ」と主張した。

 実際、今年のはだか祭りは新型コロナウイルスの感染が日本でも広がっているなかでの開催だったため、海外からは「信じられない」などの反応が見られたようだ。だが、中国人ネットユーザーからは「萬家宴と同じで止められないんだよ」というコメントが寄せられていた。萬家宴とは武漢市で感染拡大を招いたと言われる4万世帯が参加した大宴会のことだ。

 伝統行事はなかなかすぐに中止というわけにはいかないものであるが、この先日本でも感染拡大がさらに広がると、伝統的な催しも含めて大人数が集まるイベントや習慣は控えざるを得なくなるのかもしれない。そうならないよう、早く終息することを願うばかりである。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

2020年02月25日 14時12分 サーチナ

https://news.nifty.com/article/world/china/12190-20200225_00051/


 さて、今回は岡山県で毎年2月に行われている「はだか祭り」である。

「はだか祭り」は日本三大奇祭として有名で、500年以上の歴史があると紹介。ふんどしを締めただけのほぼ全裸の男性たちが2本の「宝木」をめぐって激しい争奪戦を繰り広げるお祭りで、宝木を手にした人は「福男」と呼ばれて1年間の福を得ることができるのだと伝えた。<上記より抜粋>

まあ、日本には様々な「奇祭」がある。もちろん、「祭り」である以上、当然に神と人間との間の儀式であることは間違いがない。

しかし、日本の場合は、そのお祭りの方法ははっきり言って「村ごと」または「祠や神社ごと」によって異なるといって過言ではない。つまり、一神教ではなく多神教の国であるから、その村その町、その地域における風土や言い伝えなどによって、多様性が認められており、そして、その多様性の中で祭りが規定されるのであるから、当然に、その祭りが様々に変わってくる。

例えば「福男」といわれる人物が出てくるのは、「西宮神社」が有名であるが、神が一人を選びその人に福をもたらすという考え方がある。

しかし、では神から福をもらえなかった人は、不幸なのかといえばそうではない。福をもらえた人が特別に幸運になるというような考え方である。ある意味で、「自分と神の二人分の福がくる」というような考え方になるのである。

また裸であるということに関しても「生誕した時と同じ裸体となることで清浄無垢の姿で神との交渉を行う神聖な祭事」であり、当然に「神に近い」状況にするというようなことになる。

ある意味で、このような時に女性が中に入らないということもなかなか面白い。ある意味で神が男性を好むということとから、神が女性であるというようなことを言うようにして、つじつまを合わせる地域が少なくない。

そのような意味で「神」に近い状況になるのに、疫病の感染というようなことにはならないのではないかというのが日本人の考え方なのである。そもそも「自分が神の近くに行けるように禊をし、そして、普段から間違った生活をしていなければ、疫病などは恐くない」というのが本来の日本の姿なのである。

もちろん、科学的にはそのようなことは全く関係ないし、このようなことを書くと「では亡くなった方は神に見放されるような悪いことをした人なのか」というようなことを言う人もいる。

しかし、人間である以上は一度は死ぬわけであり、それは神に見放されただけではなく寿命がある。上記に書いたように「福男が以外は不幸になる」というものではなく、禊決裁した人は「特別に神に近い存在になるから守られている」ということに過ぎないのであり、それ以外の人を批判するものではないのである。

このように考えると、日本の「神事」は、ある意味で「疫病の対策としても古くから行われた行事」であり、それぞれの時期に行うことが最も意味がありまたそれが地域制に根付いたものである。

そして疫病などに負けずにそれらを行うことこそ、真に日本のあるべき姿なのではないかと思う。