『井手祭りと楼門鳥居の巻』
彦岳宮史 津留村 より
『井手祭りと楼門鳥居の巻』
1,220年前の津留村と井手作り
今から160年前(平成30年より220年前)までの津留村は今の下井手がかりだけが水田で、上井手がかりは全部畑地であったので、現在でも畑地の農業収入は田地の収入の5分の1にも及びませんのに、養蚕とか野菜とかの栽培が遊行(ゆぎょう)しなかった当時は、尚その収入の差が甚だし(はなは)かったと思われます。そこで、「津留の耕地の面積の3分の2以上の畑地に水を引いて水田になそうという計画が立てられました。
誰の発案で、誰の計画であるかは不明ですが(記録がない)当時のお惣(おそう)庄屋(しょうや)の金栗瀬助さん(玉名郡梅林村の人 名高いマラソン王といわれる金栗四三さんの曾祖父に当たる人)のお指南で出来たことは、正円寺にある記念碑により明らかであります。またその時の津留村のお世話人は、津留村庄屋要助さん 会所総代の只右エ門さん 処百姓の和右衛門・史右衛門・形七・慰エ門・金助さんの5人。又、村役人の内世話人市右衛門・処平惣助さん方だったと書いてあります。
抜堀は矢部手永大川村医師右衛門外手附八人とありますので、「マブ(水道トンネル)」は右9人の人が抜き掘りしたことが知られます。そのほか堰の工事とか井手堀等は全部村の人たちの公役(くやく)と 中村手永の人たちの公役による御加勢でできたものでしょう。尚その碑文によりますと、昭和33年からちょうど150年前の119代光格天皇の文化元年(西暦1804年)の正月打立ち 5カ年という長い年月を掛けて文化5年(西暦1808年)に成就しております。
先ず岩野川に堰を作って水をためてから 400間ものマブを穿(うが)って、その水を芋(いも)生川(うがわ)に出し、又芋生川に堰(せき)を作って 彦岳の麓(ふもと)に作った井手に流し込むのです。井手の長さは2,100間(約3.8キロ)位あって今寺・横馬場・下宮・中津留の水田を潤して高山下・小鳥町の西目の水田まで養うようにしてあります。その面積は79町歩と云われます。
工事の設計とか「マブ」堀りとかは、それぞれ専門の人を雇ってやっただろうと思われますが、大部分の仕事は津留の人たちの公役でやられたのです。
無論その時分ですから、外の村からも相当の加勢があったことと考えられます。設計にしましても、あのようなことを(岩野川の水をちょっと考えればそれよりも高い水底の様に思われる芋生川に引くこと等)考え出す事も難しいのに、落差の少ない処に井手を流す設計等は今の様に学問も進んでおらず、測量の機械もなかった時代に良くもあんな設計が出来たものだと考えられます。又、昔の人の言い伝えでは、水を溜め、これに籾(もみ)ぬかを浮かべその流れを計って勾配をつけたということです。又、工事もずいぶん困難でも有り、危険でもあり5年という長い間の公役もたいした労力だったと思われます。それで、津留の人たちは非常に心配して「この工事がけが人もなく無事にできあがる様に」権現さんに「出来ましたら吃度(きっと)あなたのお好きな踊りを奉納致しましてお礼のお祭りをいたします」とのお願いを立てたのです。
2、井手の完成とお礼のお祭り
権現様のおかげで、5カ年がたった大工事も無事にできあがり75町歩の新しい立派な田が出来て毎年豊かな秋の実りを見るようになりました。このときの津留の人たちの喜びはいかがであったでしょうか。想像するだに嬉しい思いが致します。一寸考えて見ましても新しい田が75町歩も出来ましたので、1段5俵平均に採れたとしましてもざっと4,000俵とれたことになり現在の米の相場で一俵4,000円としますとざっと1,600万円の収入が上がる様になりまして、これから津留全体はたいそう裕福になったと云うことです、津留区民の喜びはたいした物だったと考えられます。そこで、村中の人はお礼に大鳥居を奉納しました。
今の鳥居馬場の鳥居がそれで、鳥居の銘にも文化6年2月5日(西暦1809年)奉納としてあります。又、井手が無事に出来ますようにとお願いを立てていましたので、それから毎年「井手(いで)願(がん)成就(じょうじゅ)」略して「願(がん)成就(じょうじゅ)」これをなまって「願じょうじ」又「井手祭」といって9月9日・10日・11日の恵みに感謝の意を表す祭りを行うこととなりまして、毎年毎年そのことが行われたそうです。
昔の人の話では、祭の費用は水田の全収入の100分の1をこれに充てたと云うことです。
全収入は上井手がかり69町、下井手がかり36町として合計115町、段5俵として5,750俵。今の米の相場で一俵4,000円としましても、約その代金は2,300万円 その百分の一は23万円となります。それが毎年の祭の費用に当てられたといいますからえらい大事のお祭りだったと思われます。この井手願成就には縁家(えんか)の者は勿論、近所近辺の者までを案内して3日3晩村中弁当持ち出しでした。それはそれは実に大事だったそうですが、これも一つには彦岳宮に対する心からの感謝のお礼とお世話になった縁家や遠近の人達へのお礼だったので小言一つも云わずにつとめたのです。芝居の世話は、5区の年行事が総出で世話をしましたが、全責任は5区の年々回り番に年行事が当たりました。だいたいの根世話は宮の総代とか有志の人たちがやっていたのです。この芝居は後生は大概下宮の境内で行われるようになりましたが、2,3年は横馬場の中川原にもあったことがあります。
芝居所舞台づくりや芝居小屋作りその材料集め役者雇いから馬を引っ張って役者の荷物取り、荷物送り、それはそれは大事で9月になると村中がこの事に当たったということです。3日3夜は宮野馬場筋に各区より懸けあんどんを奉納して賑やかなことでありました。
余り芝居所作りが毎年大事だったので明治26年に下宮の拝殿を改築し東側に大きい芝居の舞台兼用の籠所を新築されました。大工棟梁は田木十太郞さんさんだったのです。
右の井手祭の村協議は昔より9月1日の節句の当日 年行事や区長さん達が集合してやることになっております。近年は芝居は余り大事だから3日の休みをして御神酒上げばかりやることになっていますが、私共としましては当時の人たちの苦労を偲び、お世話になった人たちに対する感謝の意を表しこの工事の無事を御守り下さった権現様のお陰を思って何とか良いしかたはないであろうかと思います。本年の様な干魃の年になりますと、上井手のありがたみがしみじみと感ぜられます。
3、熊本を襲った干害と津留村
そして、井手祭についても今少し考えて見たいと思います。今年(昭和33年)は6月土日に雨が降ってから7月24日まで満50日余りも全く雨が降らず、熊本県下でも4,000町歩も田植えの出来ぬ処があり、最も水の便利の良いといわれる三岳村でも四段歩は田植えが出来ていません。田は植わっても水不足で苗の枯(こ)死(し)せし処も非常に多かったのです。
それで県も緊急干害対策を講じました。本村出身の「県会議員深川金藏さん方が委員となられ県から補助をやってあるところは水揚げポンプで水を揚げたり川や用水井戸井手からポンプで水を揚げ高い所などはポンプを2段も3段もついで水を揚げて田に灌漑(かんがい)されました。隣村の平小城等も小群(おむれ)では井戸を掘ってポンプでお宮に揚げそれをため池に注ぎそれを3日毎位に水を注がれたそうです。これに要した設備費だけでも60万円もかかったということです。又、城の鬼天神という処でも舞鶴川より67間も高い所に水を揚げそれより尚56間も高い鶴山の田の処まで電力のポンプを据え付けて水を送って田に注がれました。電力を引くことからポンプの堀付までを据え付けまでには6・70万円ものお金を要したそうです。こんなことが全県下に行われた訳です。けれども、水の充分注がれた処は豊作でしょうが、充分出なかった処は分けつも十分でなく、却(かえ)って生育も不十分ですから大分な減収だろうと思われます。そしてこんな干害対策が出来たところはいいですが、全く水がなくしようのない処も大分ありまして全く米の採れない処も大分あります。
右のような処の人たちの心配と世話と労力とひまぐらしは、私ども津留の者には創造もつきません。こんな時に津留村は水も十分で畝打ちすると云うほどの立派なできばえです。これひとえに、140年前に非常な困難と闘い、たくさんの費用と大いなる労力を費やして、私たちの「先祖の人たちが上井手を作って下さったお陰です。それと、又彦岳宮のお守護のお陰だとしみじみ考えさせられます。今年の様な大干魃が、今から140年前にあって、ちょうど「マブ」が出来てから7年目にあたったそうです。そして、その年は津留村ばかり大豊作だったそうです。そこで津留村の人たちはこれは上井手のお陰だ、そして「マブ」の崩れない様に守護して下さる彦岳宮のお陰だと考え何か彦岳宮にお礼をせねばということになったそうです。そして、楼門再建が行われたのです。
4,楼門の改築
吉田家の系図及び「その付記に依(よ)れば、元禄13年(西暦1,700年)72代吉田遠江守公政の時 楼門再建のことがありますからそれ以前に楼門はあったものを改築してあり、また76代吉田山城守(又の名出羽の守)隆光の文化13年子年5月8日(西暦1816年)に改築上等してあります。
楼門の地づきは一週間もかかって念入りに打ち固められたといい伝えられています。楼門の建築には二人の棟梁(とうりょう)がいて、両方が競争して一方の人が「ニクゾ」(憎んで悪さをする)に棟上の前夜、柱の根元を切り捨てたそうです。しかし一方の棟梁もこれそれの事があるだろうとちゃんと柱を長くとっていましたので無事に済んだと云うことです。今その柱を調べて見ますと一方の根元の内側を割ってあります。
その筋の人に聞きますと、彫刻などはなかなか立派なもので、今頃中々出来ぬ建築だと云うことです。こんな立派な文化財、しかも井手の出来たお陰で大干魃にも豊年だったお礼に建てた楼門を60年ぶりの大干魃だと云われる本年、しかも大豊作の年にそのお礼に建てたと云うその楼門を、今度津留邑の人たちが公役組合が持っていたお金から7万5千円も出してその土井打ち直しをして、屋根の大修理をしたことは、誠に不思議の事であり、また意義あることであると考えられます。