愛のバトン(愛の泉の振動) -受けとるも与え、与えるも受けとる-『ちいさな あなたへ』
愛のバトン(愛の泉の振動)-受けとるも与え、与えるも受けとる-
『ちいさな あなたへ』
文:アリスン・マギー
絵:ピーター・レイノルズ
訳:なかがわ ちひろ
出版社:株式会社主婦の友社
この本は、ある方からプレゼントされたもの。
今は、宝物になっている本。
今年11歳になる息子が、まだ5歳だった頃のこと。
保育園の子どもたちは、みんなでおにごっこやスライム作りをしている時、
息子は亀小屋で、一人で遊んでいることが多かった。
亀の種類や生態に詳しくなり、息子は亀博士と言われていた。
ひとり、何か違う感じがあった。
「これがこの子。この子のいいところ。」
そう思っているのに、時々どうしてこの子は違うんだろ・・と当時私は思い詰めることがあった。
シングルマザーとして必死で仕事をし、息子は誰よりも早く誰よりも遅くまで保育園にいることが当たり前の毎日だった。
仕事は時間内に終わらせて退社し、急いで息子を迎えに行っては、
昼間には150人以上いる保育園の子どもたちは5人以下という当たり前の日々。
息子の迎えが一番最後ということもあり、保育園の先生に「今急いで迎えに行っています!」と連絡することはよくあった。
時に先生の反応が怖かったり、「お母さん大丈夫ですよ」の言葉に救われたり。。
本当にごめんねと、どこかでいつも息子に対する罪悪感がつきまとっていた。
仕事では、子供のために早退や欠勤することへの申し訳なさがあり、残業なんてしたくてもできなかった。
当時一緒に住んでいた両親には、親としてちゃんとしている姿を見せなきゃと甘えは見せられなかった。
たぶん、本当に必死だった。
ある時、息子を迎えに行ったとき私は壊れてしまった。
泣き崩れてしまったのだ。
先生方は「お母さんは本当によくやっていますよ。大丈夫ですよ。」そう言って励ましてくれた。
翌日。
息子を迎えに行くと、その出来事を知った当時の園長先生が私を呼び止めた。
「私もね、
今は高校生の子供が小さいときに悩んでいたことがあってね、
ある人からもらったの。
今、そのバトンをあなたに渡してあげるときだと思ったから、何も気にせず受け取ってね。」
そう言って私に差し出した。
それが、この絵本だ。
「ちいさな あなたへ」
やわらかなタッチで、ふんわりあたたかい色合いの絵。
『あのひ、わたしは あなたの ちいさな ゆびを かぞえ、そのいっぽん いっぽんに キスを した』
「おかあさん」と「生まれたばかりのあかちゃん」。
めくるたびに、その母親と娘の、成長のワンシーン、ワンシーンが、優しい絵で現れる。
そのシーンには、たった一文が、添えられている。
まるでそのシーンの絵に、優しく花をおくように、添えられている。
『はじめてゆきがふったひ、そらへ むけてだきあげた あなたのまあるいほっぺのうえで、ゆきがとけていった。』
『みちをわたるとき、あなたはいつも わたしのてにしがみついてきた。』
『いつのまにやら あなたはおおきくなって、わたしのあかちゃんは、わたしのこどもになった。』
だんだん、母親は娘の「これから」を案じる、めぐる想いに変わってくる。
「いつかきっと、あなたも・・・だろう。」
「・・・することも あるだろう。」
「・・・することも あるかもしれない。」
こんな道も通るよね、こんな経験もするだろうね、こんな感情ももつだろうね・・
わたしも、いつか「あなた」を見送る日もくる・・
「あなた」へのその想いは、
その背中に小さな重さを背負うときのことや、
「あなた」自身の髪が銀色に輝く日がくることに至るまで・・。
園長先生からもらった5,6年前の私は、ぽろぽろ涙を流しながら読んだ。
読み返したいま。
心の芯の方から、ジーンとあたたかく振動が走る。
底のない泉から湧き出るように、
どこまでも果てしなく光が降り注ぐように、
目の前にいるわが子への愛がとめどなく溢れ、
その愛が私自身に宿る。
子どもへの愛に、
私自身が包まれるのだ。
なんて
なんて
優しい気持ちになるのだろう。
抱きしめたい、
包み込みたいという想いの愛は、
不思議なことに元々もっているのだ。
元々「わたし」自身の中心をたどれば、
そこに愛があるのだ。
だから、
その「愛」が反応し、
自然と溢れるのだ。
受けとるも与え、
与えるも受けとる。
そうか。
どちらが先、
というのではないのだ。
誰もかれも、
誰もが、
愛から生まれている。
恥ずることなく、
喜びをもって愛を生きよう。
愛と優しさは、
誰もがもっている。
わが子への愛
パートナーへの愛
親への愛
きょうだいへの愛
家族への愛
友への愛
近くにいるひとへの愛
生きものたちへの愛
自然への愛
大いなる存在への愛
愛の泉をもつすべての存在に思いを馳せると
なんて穏やかで愛おしくて幸せな気持ちになるのだろう。
まずは、
「わたし」に愛の泉があることを知ることだ。
胸に手をあて
自分に微笑みをくれた存在を思い浮かべば
あたたかな気持ちになるはずだ。
そこに疑問をもつこと。
なぜ、あたたかな気持ちになるのか。
それは、
「わたし」の中心に愛の泉があるからで、
その泉が反応し、
振動して愛が溢れるのだ。
つい先日、
「結婚したい。子どもが欲しい」という気持ちが芽生えている友人に会った。
その友人にこの絵本を読んでもらった。
愛の泉が反応して、涙ぐんでいた。
そして実は、
つい先ほどこれを書いている途中にある友人がやってきた。
自我が芽生え始めている我が子の子育てと様々な役割に精一杯尽くし、
いつかの私のように気持ちが追い詰められていた。
しばらく話を聴いたあと、この絵本を読んでもらった。
彼女は、彼女自身が驚くほど長い間耐え抑えていた感情が涙となって流れ出た。
愛が、無自覚に締めていた栓を押し開けたのだ。
そんな愛の光を放つ彼女たちと共にいることで、
わたしも彼女たちから慈しみ深い愛をもらっているのだ。
園長先生からもらった愛のバトンは、
いま、与える愛に喜びをもって、
いつでも渡せる私がいることを気づかせてくれた。
受け取るも与え、
与えるも受けとる。
知ってほしい。
全てのひと、
全ての存在の中心には、
愛の泉が、
すでにあることを。