中世の武蔵野台地
武蔵野台地をはじめとした関東地方はかつて板東と言われ、近世に江戸幕府が開かれるまでは都の人々にとっては辺境の田舎町でした。
それは、都があった奈良や京都から遠く離れていたというだけでなく、関東平野を構成するの武蔵野台地をはじめた台地が農耕に適さなかったからです。
それは台地は高台である為、低地を流れる河川から水を得にくかったこと、武蔵野台地のローム層の表層を覆う「黒ボク土」は栄養分の低い酸性の土壌だったことが理由でした。
その為、武蔵野台地は農耕よりもむしろ「牧」が置かれて放牧地としての利用が中心でした。
その一方で焼き畑農業で森林を開き、植物の灰を肥料として農耕を始め、その耕地を維持するために芝や草をすき込んだりして有機質肥料を耕地に投入することで生産性を維持していました。
こうした森林以外に草原が広がる環境が「板東武者」と呼ばれる屈強な武士団を育み、武士は軍事勢力となるだけでなく土地の開発領主として土地の開拓者となります。
石神井川流域を領地としたのは、豊島氏でした。豊島氏は王子方面から石神井川上流へと勢力を伸ばし、三宝寺池の南岸に石神井城という居城を築きました。これは防御に適していたという以上に、石神井川最大の水源である三宝寺池をおさえる事で、豊島氏が石神井川の水利権を握ったとも言われています。
なお、石神井川流域を長きにわたって治め、土地の開発をした豊島氏が滅亡後も地元の人々に愛され、地域のお祭りとして照姫まつりというものが石神井では開催されています。
また、鎌倉時代になり鎌倉幕府が開かれると、草木灰、刈敷に加えて人糞尿や厩肥(家畜糞や家畜飼料)を耕地に投入し、麦中心の二毛作が普及するようになりました。その為、それらを得るための森林の存在も重要になり、それを巡る争いも起きるようになったといいます。
このように、中世までの武蔵野台地は、草原と林、そして牧草地が広がる場所でした。