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Eimi企画  それぞれの虹

『月光塔』

2020.03.10 15:32

      2020.3.09    更新            大宇宙   著



「本当に……これを?」


 後ろにいる優男へ振り返ると、彼はその通りだと言わんばかりに微笑を浮かべて頷く。そんな彼の笑みを受けつつ、再度視線を上げる。


 雲を突き抜けるほど高い塔――。

その塔の最上階に鐘があるらしく、そこに昇らないといけないというのだけど、正直昇りたくないかな。


――それは、我が家に付きまとう「使命」という名の「呪い」のため……。


 この星では、人類の生存域が侵された影響で、今はこの島にしか人間はいない。

『何故』とか、『嘘だ』とかいった疑問は通用しない。何故ならこの島を囲む海は大きく深く、船を造って出て行ったものは戻らず、そしてまたいずれ、空から恐ろしい侵略者が現れることを、ここに住む全員が知っているからだ。


――だからわたしは、外からやってくる侵略者から人類を護るために……、鐘を鳴らすために……、これから塔に昇るのだ。

それが私の家系の使命だから――。


「――ったく、理不尽よね」

 舌打ちを鳴らし吐き捨てるようにつぶやく。

なんでも、鐘を鳴らす度、この島は消えるのだという。幽霊みたいに見えなくなるってことだと思うのだけど。……見えても触ることができないっていうか……。


 侵略者は、およそ百年に一度現れる。


 現れる前には空に異変が起こる。

 いつも淡いブルーの空にかかる白い雲が、次第に赤みを帯びてゆく。それは次第に空を覆うように広がり、いつしか紫の雲が濃く、黒く、空を覆うようになる。

 昼夜問わずそうなったとき、黒い雲の向こうから、侵略者たちは現れるのだ。


 だから、空の異変が現れるとき人々は気づく。急いで鐘を鳴らさなければならない、急いで塔に登らなければならないと。

 この空の変化を『天からの警鐘』としてわたしたちは真摯に受け止める。おそらく、この星の生命力が精一杯に自己防衛をしているのだと思う。

 最初の小さな変化が現れて一週間が経ち、紫の雲はもう空の四分の一くらいになっている。


「急がなければ……」

 そう言って、そこの優男が言った。優男はこの島の長だ。


「……お願いだ」


 頭を下げた彼は、そして兄弟十人の中から私を選んだのだ。


 でも、わたしが生まれてから鐘の音なんて、一度も聞いたことが無いんだよね。

嘘なんじゃないかなって思っているくらいなんだけど……。

だけど、わたしの後ろにいるその彼からの圧が凄くて、何も言い返すことは出来なかった。


 だいたい鐘の場所がおかしい。

雲を突き抜けて建っている塔の最上階とか、常識外れでしょ。なんで倒れないのよ、この不条理な建造物は!


「……じゃあ、行ってくるよ」


 諦めるように溜息を吐き、永遠に続くのではないかと思ってしまう長い階段に、今足をかけた。

 一段上りチラリと肩越しに目を向けると、ひらひらと手を振る彼の姿が目に映った。

    苦笑を浮かべるその表情には、諦めなさいという台詞が聞こえてきそうだった。

 やりたくないなあ、という思いが膨らみ続けながらも溜息を吐いて、意を決するように再度段を昇る。

 足を動かして一段ずつ確実に昇る。渦を巻くように上へと延びる階段を上った。


 そびえたつ巨大なポールを囲む螺旋階段の周囲は、壁ではなく金網状だ。

 手を振る彼の顔まで目に入る。

 ふと、見える心配そうな彼の顔に足を止めてしまう。でも、次の瞬間には、彼は眉を歪めてわたしを見た。

 

その顔に、何となく胸が痛んだ。

「戻ってくるんじゃないか、って思ってる顔ね。……早くいこ」


 白い目を向けられたくない思いから、さっさと逃げるように足を運んだ。

昇るペースを上げた。

そして、長い塔をどんどん昇っていった。


 痛くなる足を摩りつつ、彼の有効視界範囲から逃れる。

 そうだ。

 すでに、誰の顔も見えない。

 誰の姿も認識できない高さになっていた。



「もう少しで、雲を抜けるはずだけど……」


 休憩をこまめに入れながら、ハイペースで昇っていたおかげで日が沈む前に雲の高さにまで昇ることが出来ている。

 体力の問題とか膝が軋(きし)んでいるとか、色々大声で文句を言いたい気持ちが湧いていたけれど、もうすぐ最上階にたどり着けるのだと思うと気持ちも昂った。

 最上階に到着する人の中では最速なのかもしれない……!

 一度ここら辺で休憩してから、ゆっくりと昇ってやるわ。


 あとどれくらい? 四分の三以上は来てるよね。

 それに、もうすぐ日が完全に沈んで月が見えるはず。雲を抜けた途端、人類史上最高の景色を目に焼き付けながら昇るというのも乙なものね。


 わたしはその場に座り、水袋の水を一口飲んで息を整えた。

 疲れているのか、目を瞑ると夢を見てしまい本当に眠ってしまいそうになる。

 その度に前のめりに倒れかけては目を覚ます。

 危ないなあ、と思うがなかなか眠気は遠ざからない。

「正直、今すぐ寝たいよ……」

 床に敷いた布団に潜って、ふかふかの羽毛布団に包まれたいなあ……。

 ――なんて考えるせいで本当に寝てしまって、昇っていた階段から転んでしまった。


「! いったあ~っ」

 ほんの数段、昇ってきた高さを考えるとそれほどひどくはないのだけど、転がった時に全身打ち付けたみたいで、すっごく痛かった。顔も打ったみたいで、ジンジンとした痛みが顔中広がっていた。

「最悪……しかも、もう日が沈んでるし……。いいことなしね……」


 ムカムカとした気持ちを抱えたまま、もう一度小さな踊り場まで脚を運んだ。

 

 滞留していた雲を抜けている。

 紫色の雲を下に見た。

 地平線の彼方まで続く暗い雲の海。

 夜空に浮かぶ半分欠けた月の光が、暗い雲の海をほんのり照らす。

 控えめな月光の向こうには、自分たちの存在を示すかのようにキラキラと輝く無数の星々。

 わたしの髪も夜風になびき、月光に包まれ青白く煌く。

 ノスタルジックな雰囲気に包まれながら、金髪であるはずの自身の前髪を、くるくると弄る。

 不思議に思いながらも、湧き出す気持ちの前ではどうでもよくなった。



 どうして彼は一族の中で、わたしを選んだのだろう。

 その気持ちは最後までわたしを苦しめた。

「誰でも良いわけではない」

 彼は言った。

「鐘を鳴らす資格が必要なのだ」

「資格って?」

「神様がお決めになる」

「神様は、どうやって決めるの? それがどうしてわたしだと分かるの?」

「見えるのだよ」

「見える?」

 泣きそうになりながら、弱弱しく首を振る彼は、「……見えるのだ」と繰り返した。


 何も言えなかった。

 本当は誰が決めるのか、わたしには分からないけれど、とにかく鐘を鳴らさなければ島の人々はみんな死んでしまう、それだけが伝わった。

 そう、嫌というほどに。

 そして今、生活を離れ、街を離れ、家族を離れ、この星の天辺に来た。

 それだけだ。



 ただ誰もなく、変化を始めたこの星の動きを眺めた。


 それでも何故か胸が熱くなった。

 なんというか、胸の中を満たすこの気持ちを蔑ろにしてはいけない、という想いが膨らむ。


「神様って……こんな感じの気持ちを、ずっと持っているのかな……」


 一目惚れして胸が張り裂けそうな、愛しい人を亡くして悲しいような、誰にも理解されず泣きだしてしまいそうな、そんな感覚を覚えてしまう。

 わたしは祈るように手を組み、天に向かって囁くように呟いた。


――神様――


 瞼を閉じ、ゆっくりと頭を下げて祈る。

 五秒、十秒、二十秒……どれくらいだっただろか。

 普段であれば祈ることなどせず、誰かに言われて嫌々それらしく祈っていたが、ここに来て、初めて心の底から祈りを捧げた。

 多分、生まれて初めてのことじゃないだろうか。

 自然と出てくる涙に気付かず、わたしは半分欠けた月をただただ見上げていた。

 

 まるでそれが神様そのものであるかのように。



 数秒ほど経つと、自分が嗚咽を漏らしているのだと自覚し、そのことが、自分を元の感覚に戻そうとし始める。

 それはあがらうことの出来ない力だった。

 気づくと、塔の中にいる自分を強く自覚した。



 ――さっきまで、全然違う世界にいた。この世ならざる空気を感じていた。……なのに、それは一瞬だけのことだった。


 流れ出る涙を拭い呼吸を整え、月を真っすぐ見上げる。

 不思議な心が広がっている。


「いいわ、絶対に昇りきってやる」


 強い決意を胸にわたしは再び昇り始める。

   最初に塔に足を掛けた時のわたしとはまるで別人のようだと思った。

   まるで最初からそういう気持ちであったかのような、ちょっと不思議な体験。

   おかしいとは思わないし納得もしている。

 わたし自身の本当の気持ちに気付いたような感じ……かな?

 なんというか、とっても晴れやかな気持ちになっているの。


「だからさ、まだまだ階段を昇り続けなきゃいけない事にイラつく事もないの!」


 踏み出しきれなかったことに挑戦して自信をつけたって人も、同じような感覚なのかもしれないわ。

 今のわたしなら、どんなことでも出来るって思うんだもの。

 まるで穏やかな草原を駆けているのではないかと感じてしまうほど、素晴らしい勢いで塔を昇っていく。

 楽しいっ。

 そう感じて、軽やかに天辺を目指した。


◇◇◇




「……ふう」

 予想以上に長い階段にダウンしてしまい、塔の真ん中を貫いている柱に体を預けていた。

「きっとすぐに昇りきる」と感じはしたものの、頂上らしき場所の気配すら感じなかった。


「なんて遠いの……」


 わたしの勘も当てにできないものね。

 息苦しく感じ、胸を押さえてゆっくりと呼吸を繰り返す。

 軽い目まいに襲われる。

   頭の中がぐわんぐわん暴れ回っているような感じがしてきた。


「気持ち悪い……」


 めまいが治まらないので、その場にしゃがみこんだ。


「一気に……昇った……から、なのかしら……?」


 思考が纏まらない状態で推測しながら、ゆっくりと深呼吸をする。

 多分いつも以上に体を動かしたことで頭がボーっとしているのだろう。

   深呼吸を繰り返しているうちにすこしずつめまいが引き始める。すると、今度は眠気が一気に押し寄せてくる。

「ううっ……」

 頭を抱えた。

 正直、つらいよ……。

「とにかく、昇らなきゃ」

 どこからきているのか、自分でも分からない情熱だった。


 再び足を動かした。

   限界に到達している体を気力と根性だけで昇り続けている。

   でもおそらく、ほんのちょっとの隙で、すぐにでも意識を手放すだろう。自信がある。それほどの眠気なのだ。

 目頭を揉み解し、少しでも眠気から逃れる為に、強い目的のようなものを思い浮かべ、ただそれを達成することだけに集中する。


 ……自分で考えておきながら、なんだけど、かなり無茶なことをしているなって感じてしまう。それでも足を動かした。


 一歩一歩苦しみながら昇っていれば、当然空に浮かぶ半月が目に入ってくる。

月光が目に入るときと、柱の影で暗くなるときのサイクルが一定間隔で、これがますます眠気を誘う。


「……もう無理、眠い……」


 真ん中にある柱を背に、上段を肘掛に見立ててもたれる。

 チカチカする視界を閉じると、張っていた気が緩み、物凄い早さで眠りに落ちてしまった。





   ◇◇◇



『いやよ! あんなの、昇れるわけないでしょっ!』


 寝室として使っていた部屋には、わたしと父が向き合って座っている。

 声を荒げるわたしと違い、とても落ち着いた表情でこちらへ目を向ける父。

 塔を昇れと言われ、あれこれと理由をつけて拒否していた。

   

   役目だからと、言われた。

 

 子供のごとく駄々をこねるわたしを叱るためか、父はわたしを寝室へ連れて行った。

 家を訪ねてきた多くの大人たちの悲痛な面立ちが、目に残る。

 彼らの前では、これ以上話せないと父は判断したのだろう。

 そして寝室で父は繰り返す。 


「大切な役目なのだ。わたしたちの血筋が、生き残った人々を護る使命があるのだ」


 そこは聞いた。何度も何度も聞かされた。


「どうか理解してほしい」


 理解出来なくはない……。分かっている。 

   そう、もう充分分かっているの。

   けれど、そうやって何でもかんでも他人に任せようとする姿勢が我慢できないって、言いたかった。ずっと思っていた。沢山の人が集まって、いろんな知恵を出し合って、みんなで助かる道を探そうとは思わないの?

  うちの家系にすべてを託し、何もしない多くの人々は恥ずかしくないの?

  

「お願いします」

 と、ついに父が頭を下げた。

 それがわたしの反抗心に火を注いだ。


「他にも道があったんじゃないのっ? なんで、わたしたちに頼ろうとするの? わたしたちを生贄にしないと、人間は生きていけないのっ?」


 言ってはならない言葉だった。


 そしてみるみる父の表情が曇った。父は弱弱しい目を向けて言った。


「どうか、皆を助けてください」



 百年に一度の周期。わたしたちの家系から一人、塔に昇る……。

 それが誰だかは、そのとき分かると言われていた。

 それがどうしてわたしだと分かったのか、わたしには分からない。


   でも、父はわたしを家族だと思っていなかったの……?


 頭のてっぺんが見えるくらい深く頭を下げている父は……この人は、わたしの事をそんな風に思っていたの? 人々を助ける救世主のように……?


 そのことが私を苦しめる。


 わたしには、ずっと大好きな父だった。大好きな、かけがえのない家族だった。

 ぐるぐる巡る終着点の見つからない思考に、困惑してしまう。

 いつまで経っても頭を上げようとしない父の態度に、それを肯定された悲しみだけが突き上げてきた。

   信じたくない思いから逃げるように、寝室から飛び出す。

  多くの街の有力者たちが詰めかけている大広間には戻らなかった。


   わたしは勝手口へと向かった。



 だが廊下に出る襖を開けると、目の前には雲を突き抜けて建っている塔の姿が目に入る。


 関係ない、行きたくないという思いから、塔から目を背ける。

 再び戻ろうとしたとき、そこにあったはずの寝室も、わたしの家自体、影も形も無くなっていた。

 代わりにとばかりに近づいて来るのは、爛々と光り熱を放つマグマの海だ。

「なにーっ?」 

 じわじわと迫ってくるマグマにたじろぎ、死にたくないという思いが溢れ、昇りたくもない塔の階段に足をかける。


 息が上がり、足が絡まりそうになりながらも必死に階段を駆けあがる。

 昇れば昇るほど、マグマの海が勢いよく塔を溶かしていく。

 塔は倒れることなく、真っ赤な溶岩が迫って来る。

   その様子に、止めていた足を強く叩き、無理やりにでも動かし、昇り出した。


「もう、いや!」


 胸の底に溜め込んでいた本心を口にした瞬間、駆けあがっていた階段が壊れ、足を踏み外したわたしは真下まで迫っていたマグマの海へ落ちていく。

 逡巡する暇すらなく、赤熱する海へ足が浸かり――





   ◇◇◇




 ――っ!


 跳び上がるように顔を上げると、満天の星空と綺麗な月光が目に入ってくる。

 恐怖に支配された夢で体験した感覚がそのまま残っていた。

   夢なのだと言い切れないところに気味の悪さを感じる。


「はあ……最悪……」

 

 こもっていた力が体から抜け、段にもたれかかるように顔を伏せる。

「早く、昇らないと……」

 精神的にまいっているせいもあり、かなり気分が悪い。他の人がいたら、顔色が悪くて心配されていたかも。

 強く瞼を擦り、気だるさから抜け出すために、息を吸うタイミングに合わせて立ち上がる。

「とにかくキツイ……」


 胸の内に留めていた気持ちが自然と出てしまう。


   いつものわたしであれば本心を出してしまっただろう。焦りを覚え、口元を押える。


   わたしは息をついて、必死で階段を昇ろうと、足を動かし始めた。

  

 少し元気になったのか、先ほどよりも脚は動く。

「もう少し……」


 自身に暗示をかけよう。

 心が折れないように、昇りきる自分を思い浮かべることにした。


 もう必死だった。

 ただ上へ進むだけを考えようとした。

 本当は、息苦しさや疲労に襲われている。立つことそのものがしんどい。


   でも、あともう少しで昇りきるっ。

 上を向くと、永遠と続く階段が見えていたけど、今はその段が無くなって天井と言っていい物が見えていた。

 だから、早く昇りたい。

 もうあと少しよ。

 早く昇って皆の為に鳴らさないと……。

 足の裏の痛みを我慢し、辛い気持ちを抑えて、一気に昇り詰める。




「ここが……頂上……なのね……」


 周囲を見回すと、大きな鐘と台座が目にとまった。



 しばらくそこに佇み、ただ何度も深呼吸を繰り返した。

 丁寧に編み込まれた白い縄が天井を伝わり、台座の上から垂れている。


「あれが……」


 そのとき、肩で息をし、額から汗を流す彼女の隣に一人の男が現れた。


「だ、誰よ、あんた……」


   男はそのまま台座の方へ歩いていく。

   追いかけて来た人なのかと驚いたが、彼の姿が少し青みがかっていて、さらに透けていることに気づいた。

「なに……あれ……」

 幽霊……?

 もはや、ただの人間でないことは確かだ。

 ただ、寒気や恐怖は出て来なかった。

 人ではない者を見ても、不思議と受け入れられる。

 それは、この塔の天辺のこの世ならざる雰囲気や景色によるものなのだろうか。

 深くは考えられないが、それでも、自分自身が、そこに現れる透けた男と同類だろうことを感じていた。


 台座に立った彼は天井から垂れる縄を思い切って引いている。

   けれど、鐘が重いせいなのか縄が動く様子はなく、肩を落として悔しそうな顔を浮かべ、台座から降りてくる。

「ちょっと」

 降りる彼に声をかけるが、男は煙のごとく消えていった。

「うっ」


   手を引っ込める。戸惑いは隠せない。


   人間ではないと分かっていても、ショックだ。


 もやもやとした気持ちのまま台座へ近づくと、台座の上にボロボロの紙が落ちていた。

 いや、落ちていたというより意図的に置いた、というべきなのかもしれない。


「さっきの人の遺書、とか?」


 呟くように声を漏らし、その紙を拾うと、そこには『鐘の鳴らし方』と書かれてある。

「……『鐘の鳴らし方』? 引けば終わりなんじゃ……」

 謎に満ちた内容に目を通した。

 なにか特別なことでも書かれているのかと、気を引き締めていたのだけど……。


「ただの手順ね。特別なことは……『人の幸せを願う事』か……」


 従う気なんてない。

 ただの書面での指示にすぎない。どんなふうに引いても、結果は変わらないって決まってるのに。


 ――そう考えていたのに、この指示に従って鐘を鳴らさないといけないと、胸の奥からモヤモヤとしたものが立ち上がって来る。

 自分が自分じゃないみたい。

 この塔に昇り、高く昇れば昇るほど、自分じゃなくなっていく。今まで感じたこともないようなことを考え、今までの自分なら思わないことを思う。

 ――だけど、ここは、そういう場所なのかもしれない。

 ようやく、そういう考えに思い当たり、落ち着いた。


「やってみましょう」


 垂れ下がる縄を手で手繰り寄せ、目を瞑って皆の幸せを願って思いっきり引いた。


「……? あれ?」

 引いたはず。


   引いたはずなのに、目的の鐘は鳴るどころか揺れ動くことすらしていなかった。


   縄が固いと言うより、鐘に繋がっていないと言われているような感覚すら覚えた。

 縄が鐘に繋がっているか目で伝っていくが、切れている場所はなく、とても美しい状態のまま保持されているようにも見えた。


「じゃあ、幸せを願うってところが良くなかったの? 願う……願うってなんなの?」


 ここまで来て徒労に終わる、そう思った時に別の事が脳裏に浮かんだ。

「さっきの人も、こんなことに悩まされて鐘を鳴らせなかったの……?」

 頭の中はもうメチャクチャ。


 さっきの男の人、塔の長さ、鳴らない鐘、幸せを願う、いろんな事が起きて解決できず、とても気持ちが悪い。


 ――それって、ここまで来て、鐘を鳴らせなかった人がいたということよね?


 鐘を鳴らせなかったら、どうなるの?


 そのとき、地上はどうなったの?


 焦りばかりが募る

 だが溜まった疲れが思考を妨げて、まともに考えることすら怠く感じてくる。

 瞼が重く、意識が飛びそうだ。目頭を揉み解し、少しでも眠気から遠ざかるように手のひらも刺激する。


 どれだけ無念だか……。

 そして、そのとき地上にいる人たちは……?


 父の顔が浮かんだ。


 ゆっくりと呼吸を整えて縄に手をかける。


 目を閉じ、塔の下にいる皆の幸福に満ちた世界を思い描く。

 一つ一つ丁寧に、絡まった紐を解いていくように。


 湧き出るイメージを頼りに「幸せな世界」をつくり上げていく。



「……ふふ」

 皆の笑顔が浮かんでいた。

   一人一人が嬉しそうに、楽しそうに笑い合う姿が、はっきりと見えてきた。

   そこには、うちに詰めかけた人々も、隣の家の子供たちも、みんないる。家族も、そして父も――。

   わたしも口元が緩んだ。

……こんな世界がいい。

 

 そのとき、その世界に満たされた私の前に、鐘を鳴らそうと四苦八苦していた彼が、再び姿を現した。

「いったい、誰なの」

 問いかけるように呟いた言葉に返す人などなく、冷たい空気に溶け込むように消えていく。

「……あ」

 なんとなくわかった。

 あれは鐘を鳴らせなかった人ではなく、わたしに、鐘の鳴らし方を教えようと来てくれた人なのだ。

 わたしの軽薄な考えを戒めるため、鐘が鳴らないことがあることを示し、そしてわたしの心が鐘を鳴らすに相応しいのかを見定めるため――。

 どこからなのか、遠い世界からなのか、来てくれたのだ。

 

 胸が熱くなった。

 

 さらに幸せな島の人々の顔を思っていると、次々と知らない人たちまで現れてきた。


   当たり前のように浮かんで来る知らない人々は、ありありとしている。

   これは、わたしが膨らませたイメージ?

   本当にわたしが考えているもの? 

  そうではないのかもしれないと、ありえないことを思う。


   でも、はっきりと、これはわたしが考えていることではないって、自信に満ちた気持ちも湧いてくる。


 多くの知らない人々は喜び合い、生き生きとした活力が皆の顔に浮かんでいる。


「なんて、幸せそう……」


もしかしたら、塔の下にいたときの皆よりも輝いているんじゃないだろか?


「こんな世界に……なったらいいわね……」

 心の底から湧き上がってきた言葉を口にして、今までにないくらい穏やかな気持ちで鐘の縄を引いた。



 ――――。




 鐘の音が鳴り響く。




 耳が割れそうなほど大きな音だというのに、とても心地よい音色に聴こえる。


 大きな鐘の音を聞いた人々が、鳴り響く塔へ目を向けている光景が見えてくる。

 喜びに満ちた人々の声が、心に沁みこんでくる。

 湧き水のごとく出てくる喜びに打たれる。


 ――鳴り響く鐘の音とともに、紫の雲は消えた。


 そして空は、見たこともないような輝く金色に光っている。


 ただ、そこにいつもの淡い青の空は無く、また夜の世界もない。


   雲も何もないただの金の世界が広がる。


   まるで、月の光がこの世のすべてを包み込んだみたいに――。


   金色に光りながら、虹色が浮かんだり消えたりする。

 ……これが、「消えている」ってことかしら、と、首を傾げた。

 

――――。


「不思議な世界……」


 澄んだ気持ちに満たされ、無意識のうちに出た涙が頬を伝う。


 そのとき、さっきの男の人の姿が浮かび上がってきた。

 その後ろには、何人もの人たちがいる。

 彼らは皆、透き通っているものの、次第にはっきりと見えて来る。


 ――――。


「    」


 彼らの言葉は分からない。

 そしてまた、わたしが思わず呟いた言葉も、鳴り響く鐘の音に包み込まれる。


 ふと見ると、少し透けている自分の指に気づく。


「!」


 金色の世界で微笑む白い人々。

 ――――。

 ここからは、これがわたしの世界となるのかもしれない。


 彼らが手招きしている。

 わたしは涙を拭いた。

 そして周りを見渡した。


 鐘の音の余韻に浸りつつ、隙間から覗く月の光の美しさに見惚れる。


「このキモチ……お父さんに言ったら、驚かれるかな」


 台座の近くにある筆と紙に目を向け、父に宛てた今のわたしの気持ちをつづる。

「ありがとう、お父さん」


 手紙を薄い星の形に折り、手摺りへと近づき下へ視線を移す。

 手に持った星型の手紙に目を向け、少し悩んだあとそのまま掲げるように月光にかざす。


「わたしの想いを、皆に伝えて……」


 星型に折った手紙は、緩やかに吹く風にのっていく。


 雲は紫ではなく、すっかり白く輝いている。

 その雲の下へ姿を隠すまで見送り、振り返ったわたしは台座へと足を踏み出した。


 透ける自身の身体。

 両手を広げて待っている大勢の人々。

 ……白く輝く彼ら。



 そこには、祈る金の思いだけがあった。



 ――――。