「シノロ開村発祥地」碑。
(あしあと その879・北区の100・篠路の24)
篠路にある龍雲寺からほど近い市道沿いの河川用地に、金属板でできた碑とこじんまりとした石碑が並んで建てられています。
金属板でできた碑は、「シノロ開村発祥地」碑です。
くの字に曲がった形状の上部の説明板には、次のように記されています。
「シノロ開村発祥地
万延元年(一八六〇年)位から、和人の入植が始まりました。シノロに最初に定着した和人は、荒井金助と早山清太郎の両人であることは異論のないところでありましょう。安政二年(一八五五年)ロシヤの南下政策に対抗する為に、それまで西蝦夷地を管理していた松前藩が能力無しとのことで、江戸幕府の第二次直轄が行われることになりました。その二年後の安政四年(一八五七年)に、箱館奉行配下石狩調役・荒井金助が石狩に着任し大改革を行います。石狩には、開拓の適地が無いため発寒で知り合った早山清太郎に荒井村の入植適地を探索してもらいます。その地が、ここ、シノロ・ブト界隈だったのです。それは、安政六年(一八五九年)のことですから、今から百五十五年前のことです。なお、箱館奉行配下・荒井金助の菩提寺である篠路山豊国院龍雲寺と開拓功労者・早山清太郎の邸宅が、旧シノロ・ブトを挟んで存在し、現在でも知る事ができます。一世紀半を過ぎ、篠路も一大住宅地となり、また、川の流れも大幅に変わり更には舗装道路も完備され便利になりました。ですが、今や忘れ去られようとしているのを残念に思い、ここに記念碑を建立することになったのです。なお、ここに建っている馬頭観音大正十二年(一九二三年)は石碑に刻まれているように本村・五の戸・横新道の有志が馬だけでなく、開拓功労者や先住民のアイヌや擦文人の精霊も祀っていたあかしだと思います。この度、篠路開村発祥の地に住み続ける篠路本村の子孫が、両偉人と本村先人の苦労を偲んで顕彰するために建立するものです。
平成二十六年九月六日 碑文 (氏名)」
下部の説明板には、上下にそれぞれ「篠路開村記念碑建立協賛者氏名」と「篠路開村記念碑建立実行委員会名簿」として、多数の個人名と企業名が記されています。