3️⃣日本人として忘れてはいけない3.11 14:46
2011年3.11 14:46
死者: 15,901人
行方不明者: 2,519人 (2026年3月1日時点)
震災関連死: 3,810人以上(2025年末時点)
当時のらっぽん
ベッド9台
らっぽんメンバー
棚に並べた
30本ほどのエンザイムが
次々と落下
ベタベタになった床には破片が散らばって
しきっていた壁は音を立てて
斜めに倒れこみ通路を遮断
事務所の2mを超す大きな棚は
両サイドから倒れ
床に散乱し埋め尽くされて
窓から見える街の大木2本が
初めて大きく揺れているのを見ました
当時のリーダーが起点を効かせて
みんなを階段で外まで誘導してくれ
わたしたちは
数日分のカルテと予約票を持ち
その日予約のビジター様に
携帯で電話をかけ
予約の調整願い
その時はまだ
そこまでの大惨事だとは
想像していないので
みんなはピクニック気分でした。
一応私は偉そうに
テレビで連日流れる被災地を見て
いてもたってもいられなくなり
情報をツイッターから集め
LINEのない当時メインのメルマガで拡散
毎晩部屋の中でも寝ている時でも靴を履き続け
夜中でも情報をおくり続け
クレームが殺到し登録者は激減
(1180名登録→300名)
それでも拡散の連続
避難する場所がわからず
寒さに震えてる人もいたし
宮城からの相談者は
震災直後 連絡が取れなくなり 安否確認の毎日
*後日無事であることを確認安堵
ボランティア活動したかったけど
通れる道がなく
募金だけを募る毎日
※微力ですが募金をさせていただきました。(約20万)物資をいただいた方・募金してくれた方 本当にご協力ありがとうございましたm(_ _)m
ようやく夏に
道が開かれ
仲間と一緒に
*車を出してくれたおぐりんありがとう。
交通費は自腹で
宿は車中泊かテント
物資も助かったそうですが
「会うだけでも勇気付けられる」
と言ってくれる方もいて
それでも
無力感を感じました
見たこともない瓦礫の地平線と
現地の生のお話は
私の想像をはるかに超えていました
「避難所の体育館で待機していたら
目の前にゆっくりと大蛇のように
津波が入ってきて
一気に人が飲み込まれていったの」
「一晩中 海の向こうから
人のうめき声が聞こえていました」
「自宅にあった現金や金目のものは
全部取られたよねー。」
指輪が指ごと取られていたよ」
今思い出しても
胸が詰まります
被災地の悲しみを
深く胸に刻み
これからも
深くご冥福をお祈りいたします。
2021.3.11 粟飯原 正和
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2026.3.11 追記
2011年3月11日 14:46
あの日から15年が経ちました。
時間が経つと
記憶は少しずつ風化していきます。
けれど
被災地で見た光景
聞いた言葉
感じた無力感は
今も私の中に残っています。
瓦礫の地平線
静まり返った街
そしてそれでも前を向こうとする人たち。
あの時
「生きていることは当たり前ではない」
ということを深く学びました。
だからこそ
今日という日を
ただの一日にしてはいけない。
亡くなられた多くの命を想い
残された私たちは
精一杯生きる。
それが
あの日を忘れない
一つの形だと思っています。
2026年3月11日 14:46
深く哀悼の意を込めて
粟飯原 正和