素敵なトレイル紹介します(イシイシンペイ)
ロサンゼルスで3回目の春である。生き物が活発に動き始める季節を前に、頭の中で地図を広げている。今年はどこに行こうか。
最初のうちはまっさらだった脳内地図にもずいぶん色がついた。実際スマホで登山アプリのマップ画面を開くと、これまで歩いた道が色つきで表示される。広いカリフォルニアの大地に対してかすかな引っかき傷のような一本一本だけど、私にとってはどれも大事な記録だ。
お気に入りのトレイルもできた。アイスハウス・キャニオン(Icehouse Canyon)はその中の一つ。ロサンゼルスから車で1時間の中級コースだ。アメリカで最初にハイキングをした道でもある。土地の先輩から歩きに誘ってもらって以来、自分でも何度か足を運んでいる。景色の変化に富んでいる上、複数の縦走コースの起点となっていて、懐が深い。このあたりは3,000m峰を擁するロサンゼルス郡で最も山深いエリアであり、北向き斜面には春まで雪が残る。
ちょっと変わった地名をあえて和訳すると「氷室谷」という感じ。150年ほど前にここに建てられた氷の搬出施設からその名がついている。かたまりに切り出された氷はラバの背に乗せてロサンゼルスまで運ばれたという。当時の道路状況や距離を考えると丸一日以上はかかったと思われる。溶けないようにする工夫が大変だったことだろう。
市中へ運ばれた氷は、富裕層の飲むワインを冷やしたり、アイスクリームを作るのに使われた。アイスクリームのおかげかどうかは分からないが、この氷ビジネスを仕掛けたDamien Marchessaultという人は直後にロサンゼルス市長として就任し、歴史に名を残している。
この一種の山師が市長になった当時、ロサンゼルスには空前の不景気が押し寄せていた。カリフォルニアの人口を爆発させたゴールドラッシュはあっという間に終焉を迎え、天然痘の流行、旱魃と洪水、それに水不足など、市政を遂行する上で碌なことがなかったらしい。けっきょく氏は酒とギャンブルで身代をつぶしたあげく、拳銃自殺を遂げている。日本では幕末の血生臭い動乱が繰り広げられていた頃の話である。
そんな開拓時代の面影を今に伝えつつ、アイスハウス・キャニオンは現在多くのハイカーに親しまれている。キャニオンという名の通り、ここは豊富な雪解け水に削られた渓谷である。夏でも涸れない谷川や美味しくて有名な湧水が人々を惹きつけている。基本的にカラカラの砂地と岩山でできているこのあたりの地質において、水音を聞きながら歩けるというのは非常に貴重なポイントだ。
また、単に涼しくて気持ちが良いだけでなく、ヤナギやオーク、カエデといった水気を必要とする広葉樹が多く生育していて、風景に変化を与えている。日陰が多くて寒いのでトカゲやヘビ等の爬虫類は少ないが、リスや小鳥の類はたくさん観察することができる。また、真っ赤なオダマキやペイントブラッシュ、黄金色のキクや薄紅のソバの花にはハチやアブ、カメムシやユスリカの仲間が集まってにぎやかだ。
沢筋をしばらく登っていくと「木の化石」がごろごろ転がっているところに出る。若干開けた河原に、木目模様の入った切り株のような岩が無造作に散らばっているのだ。「木の化石」とは呼ばれているものの、本当に樹木の化石なのかどうか、個人的にはまだ納得できていない。細かい地層に強い力がかかったらこんな風にねじ曲がるような気もするし、長いトレイルのここにだけしか見られないのも不思議である。ただ、もしこれが幹の一部だったならば、もともとの木はセコイア国立公園に今でも少し残っているような、世界最大レベルの植物だったに違いない。化石だったらすごいロマンだし、仮に化石ではなかったとしても非常に変わった岩である。この岩石の由来についてはネットで調べても信憑性のある情報が見つからず、通りがかるたびに楽しく首をひねっている。
「化石」を後にして少し歩くと、トレイルは沢筋を離れる。尾根に向かって細かく折り返しながらガシガシと登っていく。風景は灌木と針葉樹を中心とした疎林に変わっている。直射日光にさらされるのでつば広の帽子が必須である。きつい傾斜にすぐに息が上がるが、一帯に立ちこめる松ヤニの匂いを胸いっぱい吸い込んでとにかく登る。ある程度高いところで振り返ると、後方にはマウント・バルディーがそびえている。標高3,062mのロサンゼルス郡最高峰だ。市街地からも飛行機からもすぐそれと分かる丸い山容は特徴的で、すっかり覚えてしまった。この冬も遭難者が出ている危険な山であるが、それも含めて拝みたくなるような魅力がある。バルディーを眺めながら持参した麦茶を飲んでいると、自分のちっぽけさをしみじみと実感する。良い。
登りきったところはIcehouse Saddleと呼ばれている。いわゆる鞍部だ。少し平坦になっていて、一応のトレイルの区切りとして道しるべが立っている。弁当を食うにはもってこいの場所で、いつも誰かが休憩している。吹き抜ける風を充分に楽しんだら来た道をまた戻ってもよいし、さらにその先へ縦走してもよい。ここはなんと5本も山道の集まる交通の要所になっていて、どの道をたどってもまた違う冒険が待っている。
広大なアメリカで、こんなごく一部のトレイルすら歩き尽くせていない。なんてわくわくするんだ。夜な夜なガイドブックをめくっては次の計画を夢想している。
※歴史参考:Homestead Museumブログ(2020年2月17日アクセス)