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文霊 〜フミダマ〜

Short Story 【苦痛】 〜麻友子と瑠美〜 ④

2020.03.21 10:30

瑠美が帰宅すると時刻は22:00に差し掛かろうとしていた。リビングには佑志と娘の香奈が2人でテレビを観て寛いでいる。佑志は神妙な面持ちでソファに座り、顔を向けもしなかった。

「おかえり〜ママ」

香奈は無邪気に声をかけた。

「ただいま。ごめんね、帰りが遅くなっちゃって。香奈はもうお風呂は入った?お兄ちゃんは?」

「部屋でまたゲームばっかりやってるよ」

「そう。本当に困ったものね。そろそろ香奈も寝なさい。もうすぐ卒業式なんだから、最後まで体調万全にして通わなきゃね」

「うん、寝るね〜!ママ、パパ、おやすみなさ〜い!」

「うん、おやすみ。あ、お兄ちゃんにもゲームはいい加減にして寝るように言っといて」

香奈は「はーい」と返事して二階の自分の部屋へ駆け上がって行った。


「剛志は風呂もまだのはずだよ」


佑志が瑠美の帰宅後、ここで初めて口を開いた。息子の状況を知らせた。遠慮深げだった。

息子の剛志達は根からのデジタル・ネイティヴ世代だ。物心ついた頃からインターネット・ゲームで世界と繋がり、物の売り買いもネットを通してする事を親に進めてくる。


IT化の波を企業側がコストをかけて取り入れる時期もあったが、一技術士だった佑志は電気工事一筋でITの波にも乗り遅れれ、経営にも取り込めなかった。

それはそれで同情もあるが、かといって今回の件とはまるで関係はない。


瑠美は剛志の部屋へ風呂に入ってもう寝るようにと伝えに言って、再びリビングへ戻ってきた。

夫婦の立場が入れ替わった最初の日だった。夫が先に帰ってきて、経営トップに立った妻が遅れて帰ってくる。


「ちゃんと言いつけを守って、家にはいたみたいね」


夫婦2人だけの時間が訪れた。ここからは子供達には聞かせられない対話が始まる。無論、何があったかも知らせてはいない。

佑志はソファから降り、床に座り込んだ。


「何度謝ろうと、君が許してくれないのはわかる。過ちを犯したのは俺だ。子供達も裏切り、君を傷つけたのも俺だ」


瑠美はキッチンで冷蔵庫からコロナの瓶ビールを取り出し栓を開けて、一切れのライムを押し入れた。今夜はもう食事を取り入れるつもりはない。

さほどアルコールに強い訳でもなく、適量をフルーティーに飲めるこのメキシコビールを瑠美は好んでいた。自宅でも買い込んでいる。

シンクのヘリに片手を付き、佑志を軽蔑の眼差しで見下ろしながら、もう片方の手でビールを口へ流し込んだ。

佑志がリモコンでテレビを消した。外の夜のシジマがリビングに滑り込んできた様だ。


「だから?また彼女を庇うのかしら?」


佑志は何も答えないが、その顔は懇願で満たされ、目で語っている。


「あなたが…いえ、あなた達が裏切り、傷つけたのは私や家族だけ?会社や社員達を裏切ったとは思ってないのかしら?それがあなたに社長の資格はないと、その席から降ろした理由なんだけど」


「それなら…クビにされて離婚されても仕方ないと思ってる…」


「あなた、考え甘くない?いずれにせよ、クビにして離婚しても、あなた達は膨大な慰謝料を払う事になるわ。

そしてあなたは、クビにされてどんな仕事で一からやり直し、その慰謝料を払ってゆくと言えるの?」


「彼女だけは…」


瑠美はすかさずその単語に反応し、言葉を返した。


「一緒に地獄へ落ちてもらうわ」


冷たくそう言い放ち、コロナのビールを飲み干す。


「今夜から、あなたは客間で寝てね。お風呂は剛志が上がった後、私が入る。あなたはその後に入るか、明日朝にシャワーでも浴びて」


一呼吸、間を置いて瑠美は続けた。


「離婚はゆくゆく考える。明日はあの美人会計士さんがお父様に伝えて、どんな答えを用意してくるか楽しみね」


瑠美の声のトーンに、楽しみなど感じない。ましてや怒りや憎しみでもない。

哀しみが色濃く滲んでいた。


「待ってくれ!話を聞いてくれ!」


佑志の静止も虚しく、瑠美はリビングから自室へ立ち去った。


〜◆〜


朝を迎えた。

快晴だったが、麻友子の気分は清々しくはなかった。


昨夜は達郎の思いがけぬ訪問と、意を決しての告白により、麻友子の瞼は泣き腫らした跡が残っている。鏡を見て気を揉んだ。

眠りも浅かったと思う。脳が明瞭な思考を拒んでいる。


今日も瑠美は電話をかけてくるかもしれない。 

いや、私から連絡せねばならなかったのだろうか?

そういえば、佑志からは結局電話がかかってこなかった事を思うと、加藤に頼んだあの手紙はちゃんと佑志には渡っていなかったのだろうか? 

それとも彼は、やはり電話をかけられない状況にあったのか?


よぎる思いは幾つも湧く。

しかし麻友子のボヤけた思考は、それらすべてを「どうでもいい、どうとでもなれ」と切り捨てる。


化粧と身支度を済ませてマンションを出た。事務所へ向かう足取りは重い。いや、それは別に今朝始まった事ではない。昨日の瑠美と会った時からずっと重い。

普段の元気と自信に満ちて活発で、有能に働く自分はいつ、取り戻せるのだろうか。もしかすると、そんな日は二度と帰ってはこないのだろうか。

日頃はスタッフが気落ちしている時も、クヨクヨするなと檄を飛ばしていた自分である。麻友子は「弱気になる」という感覚を思い知った。


昨夜、達郎は一通り麻友子の話を聞いていた。

聞いた後で達郎が尋ねた事は一言だけだった。


「彼を…愛していたのか?」


麻友子にとっては予期せぬ質問だった。

話の脈略として、会社に、そして現段階ではまだ社長である父親に迷惑をかけてしまうかもしれないという、自分の犯した罪と罰の告白だった。自分の平穏を自分の手で壊した、そういう懺悔の時間だった。

そう問われるまで、佑志の事など考えてもいない自分にその時、気づいた。果たして自分は彼を愛していたのだろうか…?


「わからない…その時は愛してた…今は…わからないの」


再び涙が溢れた。


達郎から彼への愛を確かめられた事で、麻友子は話の道筋の迷子となった。

質問の意図はわからない。親としては、子供が不倫をしてそれが知られた時、世間では子供にそう尋ねる事は普通なのかもしれない。その意図や世間の普通などわからないし、知りたくもない。


ただ、不意を突くこの質問で、本当に心の奥で考えていた事や感情を、そしておそらくは麻友子自身も意識していなかったであろう事を、芋づる式に掘り起こされ気付いてしまった。


愛…ではない。


佑志の家庭を壊すつもりはなかった。だが、人の目を盗んで密会を重ね、佑志との間に育てようとしてた物…それは愛だったのか?と問われあらためて考える。

愛していたのか?

愛。自分を犠牲にしても相手にとってベストの状態を望み、与える感情。遠い過去に達郎は、麻友子にそう教えてくれた。

そして経営者たる者、それは社会の為、顧客の為、社員の為に矢印を向けるべきだと彼女に聞かせていた。

もし「自己愛」たる物があるならば、それは自分の本当の理想と使命を果たす自分に向けるべきだとも。己の私利私欲に向けてはならぬとも。


愛だと思っていた感情は、愛ではなかった。

この件で瑠美と会い、麻友子がずっと考えていた事は保身だけだった。

第一、佑志が電話をかけてきて会えたとして、自分は何がしたかったのだろう。

傷の舐め合いか。それともうまくこの危機を乗り越えようとする辻褄合わせか。


愛ではないのなら、何だったのか?


彼と2人で会う様になったのは、元々会社の経営の悩みだった。

自分の経営者としての力量の不足、妻との経営方針の対立、そして自分は認めてもらえない歯痒さ。

同情し、慰め、そして抱かれた。


その行動と感情の正体は麻友子自身がただ、合意する異性とシチュエーションを求め、都合良く性欲とストレスを処理したいだけだった。

けして愛ではない。ただ、魔性の獣であっただけ。


達郎にとってはまだ「愛している」という答えの方が救いだったかもしれない。皮肉にも麻友子は肩の荷が降りた思いも味わった。

「わからない」の答えは十分に愛を否定していた。達郎は落胆しただろう。麻友子に経営者の資格無しと思ったかもしれない。


問いの答えを聞いて達郎は静かに

「部屋の中だけじゃない。気持ちも…整理整頓しておけよ…」

そう残して帰って行った。背中が失意を語っている様だった。


私は今、朝を迎えて事務所に向かって歩いている。

不思議と太陽の光を浴びているうちに、心の靄も晴れてゆく様だった。これは開き直りなのか。

達郎にも打ち明けた。免罪符はもう無い。臆する事はもう止めよう。どんな償いも受け入れる。そう自分に言い聞かせていた。


きっと生まれてから今までで、一番の苦痛を味わう日の筈だ。


〜◆〜


「おはよ〜」


麻友子は精一杯、明るい笑顔を演じて事務所の扉を開けた。

早くも加藤が出勤しており、デスクでパソコンと向き合っている。加藤は眉を上げて麻友子を見た。


「おはようございます。具合はもう良くなりましたか?」


間を置いて挨拶をしてきた。麻友子はいつもと空気感が違う加藤の雰囲気を、もしやまだ何か疑っているかと怪訝の念を持ったが、努めて日常を維持しようと声をかけた。


「昨日は心配かけてごめんなさいね、加藤君。今朝は早かったのね」


「当たり前じゃないですか。昨日は全然仕事にならなかったんだから。今朝は社長にも詰めて働いてもらうしかないですからね」


取り越し苦労の様だと胸を撫で下ろした。

昨日のあの後、加藤が川崎電設に行って何か問い正されはしなかったかと気がかりも残るが、最早慌てる事はやめよう。そう腹を括ってきた筈なのに、やはり事務所へ来ると緊張が全身を駆け巡るものだ。


左手首、相棒のパテック・フィリップを覗き込んだ。

麻友子は自分への褒美にと購入したこの時計を、誇りにしている。公認会計士となり、幾つかのクライアント企業の監査を2〜3期務めた頃に、その中の一社の社長に「一つくらい、いい腕時計を持つべきだ」と進言を受けた。

最初は気乗りなど全くしなかった。その社長が腕時計マニアだという事もあり、酔狂と見栄で言ってるだけと捉えていたが、それでも彼の一つの言葉が胸に引っかかる。


「坂上さんも公認会計士の資格を取るまで、色々と長い時間をかけて勉強してきたろう。そうやって時を刻んできたし、これからも色んな勉強をして刻んでゆくんだ。人生は時間だよ。せめてその時を覗く時くらい、自分の足跡に誇りを持ててテンションを高めてくれるご褒美の時計で覗きたくないかい?いや、覗くんじゃない、やはり刻んでいるんだ」


その言葉にだけ妙に残り、何となく「いい時計」を買ってみようかという気になった。それからとゆうもの、高級な腕時計を気にして見る様になり、このデザインと出会った。

買う時は奮発した。「清水の舞台から飛び降りる」とはこんな気持ちなのかと思った。初めての高額な買い物だったが、以来、この時計を覗く度に、これを付けてて恥ずかしくない仕事をしてゆこうと決意がこみ上がってくる。


横沢をはじめ、事務員達も徐々に出勤してくる。父親が普段、出社する時刻まではまだ30分程余裕があった。

瑠美から言われた台詞が蘇る。「お父様に相談して、誠意を見せなさい」とりあえず、第一の難関であった達郎には打ち明けた。

そうか。慰謝料の相場とは幾ら位なのだろう。それを調べなければならない。自分が今までで購入した最高額のパテック・フィリップをもう一度覗く。

この時計と、どちらが高いのだろう。

時と共に積み上げてきた物が、今日、崩れゆくのだろうか。


「そういえば社長」


加藤が声をかけてきた。パソコンのキーボードを打つ手を中断し、頭の後ろで手を組んで椅子に反り返りながら麻友子を見る。随分と慣れて態度に貫禄が付いてきたものだ。


「なに?」


麻友子はスプリングコートを脱ぎかけで、振り向く事なく返事を返す。


「昨日渡された封筒、ちゃんと川島モータースの常務さん宛に届けておきましたよ」


コートを脱ぎかけていた体の動きがピタリと停止し、スローモーションで麻友子は振り返った。

思考は急に、深い霧が立ち込めてゆく様だった。


「え……今…何て言ったの?加藤くん」


「だから、ちゃんとお手紙、川島モータースさんへ届けましたよって言ったんです」


「え?え?ちょ、ちょっと待って!川崎さんにじゃなくて?」


「え?僕の方こそ「え?」ですよ!川崎さんに挨拶回りに行くのはわかりますけど、何故、反対方向の川島さんへもかなぁと思ったんですから。

僕、聞き直しましたよね?「川島さんですか?」って。社長、確かに「川島さん」って言ってましたよ」


「私、川崎さんって言わなかったっけ?」


「やだなぁ、社長!はっきりと川島さんって言いましたよ!」


この瞬間も時計は時を刻んでいるのだろうか。少なくとも麻友子は自分の身体が凍りついてゆく様だった。痛恨のミスだった。


「加藤くん、私…あれは川崎電設の常務さんに渡して欲しかったのよ…なんで貴方に川崎さんに出かける様に指示して、川島さんにも行ってなんて言うはずが…無いじゃない」


麻友子はつい、己の間違いを加藤へ責任転嫁し出した。

責められてる事に気づいた加藤は驚きも隠さず、目には心外だと言いたげな呆れの色を浮かばせた。


「社長!僕だって反対方向を二軒回らされて自分の仕事は止まるし効率悪いなぁとは思ったんですよ!

でも、社長が間違いなく川島さんって言ったものだから…

昨日は川島社長さんとのランチ会もすっぽかしたじゃないですか!?てっきりそのお詫びとかかなぁと思ったんですよ!

社長は具合悪そうだし、あまり詮索出来なかったんです!」


加藤は苛立っていた。それもそうだろう。一気に不協和音の空気が立ち込める。

麻友子は自分の非を認めたくない余り、禁断の嘆きの言葉を加藤にぶつけてしまった。達郎が嫌う上司がやってはいけない行為の一つだ。どうして思い止まる事が出来なかったのか、後悔する。


「社長、とにかくあの時、確かに川島さんって言いましたからね…」


加藤は不機嫌をあらわにした。


「…ごめんなさい」


昨日から謝ってばかりだ。麻友子は自己嫌悪のため息が漏れる。

また問題が一つ増えた。川島モータース側ではあの手紙を読まれただろうか。

佑志宛に書き上げた文面を思い返す。どう捉えても不倫関係にあった男女の会話だ。顔だけ体温が上昇し、再び目眩が襲ってくる様だ。


今朝は出勤すれば昨日の早退分、作業が滞っている事はわかっている。川崎電設に担当を外され加藤への引継ぎもある。

そんな中、麻友子は加藤の隙を突き、弁護士をしている大学時代の同級生に、離婚調停や裁判における慰謝料の相場などを探りを入れようとも考えていた。

そんな事よりも更に重大な優先事項が降ってきた。川島モータースへ渡ってしまったあの手紙を止めねばならない。いや、手遅れか?


どうすればいい…?


事務所へ辿り着くまでの間に、「開き直り」による落ち着きを取り戻したのだが、それ以上に心はもうバラバラになりそうだった。


そこへ…コン、コン、コン

達郎のいつもと変わらぬ規則正しいリズムのノック。いつもの朝よりも早い時間の達郎の出社だ。

昨夜、マンションで達郎と面会、泣きながら告白と謝罪をしてから12時間と経っていない。

達郎は麻友子と加藤の事務室に入室してきた。


「おはよう」


達郎はいつもと変わらぬ挨拶だった。

合わせる顔は…まだ用意していない。達郎が来るまでの間にまた更に心の準備をしようとしていた。弁護士の友人への電話も。


「おはようございます」


加藤と二人、挨拶を返すも麻友子のパニックは頂点に達した。


「加藤くん、麻友子、今日はやる事も色々多いだろう。昨日一日分の遅れを取り戻さなきゃならんしな。

だが、済まない。今日も夕方から麻友子、君は私と一緒に来なさい。川島社長もいる。わかるね?」


わからない。わかるようでわからない。

川島の名前も出て、心臓を鍼で突き刺されたよな痛みが走る。夕方には…この日中には瑠美へも答えを届けねばならない。麻友子の中で、何重もの苦痛タスクが竜巻となり渦巻き出す。

ただ一つだけわかる事は、父親のその口調は「今日は逃がさない」という強い決意に満ちている事だった。


〜◆〜